林誠之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
はやし せいのすけ
林 誠之助
本名 久保 十郎 (くぼ じゅうろう)
生年月日 1907年3月
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町
職業 俳優
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1923年 - 1939年
主な作品
國士無双
赤西蠣太

林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名久保 十郎(くぼ じゅうろう)[1]。引退後、実業家となった[1]

人物・来歴[編集]

1907年明治40年)3月佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町)に生まれる[1]

旧制・佐賀県立鹿島中学校(現在の佐賀県立鹿島高等学校)に進学するも、1923年(大正12年)に中途退学し、二代目市川荒太郎に入門して歌舞伎役者となる[1]。翌1924年(大正13年)、師の荒太郎とともに京都の松竹下加茂撮影所に入社、師の主演映画[5]に「林 誠之助」の名で助演して、映画界にデビューする[1]。同年末、師の荒太郎は同撮影所を退社、それを機に、林は松竹キネマに残留し、東京の松竹蒲田撮影所に異動する[1][2]。1927年(昭和2年)6月、同社を退社、同年9月には、京都のマキノ・プロダクションに入社する[1]

1928年(昭和3年)4月、マキノを退社して日本映画プロダクション連盟に参加、同年5月10日、片岡千恵蔵が創立した片岡千恵蔵プロダクションの設立に参加、同社第1回作品『天下太平記』以降、1937年(昭和12年)に同プロダクションが解散するまで、ほとんどの作品に出演し、脇を固めた[1][2]。同年、片岡千恵蔵とともに、日活京都撮影所に入社する[1][2]。1939年(昭和14年)11月1日に公開された菅沼完二監督の『股旅日本晴れ』以降の出演歴が見当たらない[2][3][4]

第二次世界大戦中に俳優業を廃業した[1]。実業界に転身し、地元・御船山近辺で成功を収めたという[1]没年不詳

日本映画データベースにおいて、同時期に活動した俳優の林誠太郎との混同がみられる[2][4][6]

フィルモグラフィ[編集]

すべてクレジットは「出演」である[2][3][4]。公開日の右側には役名[2][3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

松竹蒲田撮影所[編集]

すべて製作松竹蒲田撮影所、配給松竹キネマである[2][3]。すべてサイレント映画である[2][3]

マキノ・プロダクション[編集]

すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」である[2][3]。すべてサイレント映画である[2][3]

片岡千恵蔵プロダクション[編集]

特筆以外すべて製作は「片岡千恵蔵プロダクション」であり、配給は時期によって異なり「自主配給」「日活」「日本映画配給」「新興キネマ」と明記した[2][3]

自主配給
配給 日活
配給 日本映画配給
配給 新興キネマ
配給 日活
右が林、中央が片岡千恵蔵、左奥が瀬川路三郎。『瞼の母』(監督萩原遼、1936年)スチル写真

日活京都撮影所[編集]

すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[2][3][4]。すべてトーキーである[2][3][4]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m キネマ旬報社[1979], p.467.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 林誠之助日本映画データベース、2012年12月10日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 林誠之助、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月10日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 林誠之助日活データベース、2012年12月10日閲覧。
  5. ^ 市川荒太郎 - 日本映画データベース、2012年12月10日閲覧。
  6. ^ 林誠太郎 - 日本映画データベース、2012年12月10日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 林誠之助、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月10日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]