松平綱国

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松平綱国
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文2年12月9日1663年1月18日
死没 享保20年3月5日1735年3月28日
改名 永見万徳丸(幼名)→松平綱国
別名 通称:永見市正
号:更山
戒名 更山院殿前拾遺馨譽鐵心大居士
官位 従四位上侍従三河守
幕府 江戸幕府
越後高田藩世嗣
氏族 永見氏越前松平家
父母 父:永見長頼
母:立幸院(大木氏)
養父:松平光長
兄弟 長源院、綱国
安藤国近
養子:豊子(池田政純室)
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松平 綱国(まつだいら つなくに)は、江戸時代前期の越後国高田藩の世嗣。官位従四位上侍従三河守

生涯[編集]

寛文2年(1663年)12月9日、永見長頼松平忠直の次男)の長男として生まれる。母は立幸院(大木氏)。幼名は万徳丸。寛文7年(1667年)8月16日に父長頼が死去し、その跡を継いだ。延宝2年(1674年)1月30日、伯父である高田藩主松平光長の世嗣綱賢が男子なく死去した。光長には他に男子がなかったため急ぎ世嗣を定めねばならなくなった。世嗣の候補は万徳丸、光長の異母弟永見長良(永見大蔵)、万徳丸と同じく光長の甥にあたる筆頭家老小栗正矩(小栗美作)の三男長治(大六)[注釈 1]、そして尾張藩徳川光友の次男松平義行[注釈 2]であった。評議の結果、永見大蔵は既に40歳を越える高齢であり、15歳の万徳丸を世嗣とすることで決まった。延宝3年(1675年)3月23日に母立幸院が死去した。同年5月18日、将軍徳川家綱に御目見する。同年11月23日に元服し、家綱より偏諱を賜って松平三河守綱国を名乗る。

しかし越後騒動で養父光長が処罰され、高田藩が改易になると、世嗣であった綱国は備後福山藩水野勝種にお預けとなった。貞享4年(1687年)に赦免されたが、綱国は光長と不和になっており、元禄6年(1693年)に病弱を理由に廃嫡され、代わって白河藩松平直矩の三男矩栄(宣富)が迎えられ世嗣となった。

廃嫡後は松平家の転封に併せて美作国津山に移り、宮川御殿と呼ばれた屋敷に住んだが、病を理由に津山藩の要職には就かなかった。宝永4年(1707年)8月10日には養母立長院が死去。同年11月17日に光長が死去すると、綱国は松平忠直の男系血筋の唯一の生き残りとなる。宝永5年(1708年)8月12日に出家して更山と号した。享保20年(1735年)3月5日に74歳で死去した。

子孫は安永2年(1773年)閏3月9日に永見へ改姓し、明治3年(1870年)に松平へ復姓した。

系譜[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 生母は光長の異母妹勘子。
  2. ^ 生母は将軍徳川家光の娘霊仙院

出典[編集]


参考文献[編集]

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