李意其

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李意其[注釈 1] / 李意(り いき / り い)は、中国三国時代隠者。字は不詳。益州蜀郡の人。

略歴[編集]

三国志』本文中には現れず、裴松之が注として付した葛洪神仙伝』に登場する。

前漢文帝の時代の人といわれており、妻子はいなかった。 遠地まで急行したいという人に対し、李意期が符を与えて、朱でその人の両足に文字を書くと、1日と経たずに千里を往復できたという。また、四方の郡国、宮觀、市井の様子を見たいというと、土をこねて、郡国の形象(ジオラマの類)をそっくりそのまま作り出して見せたが、それはたちまちのうちに消滅してしまった。ときおり遊行にでかけたが、行き先はわからなかった。1年が経つとに帰還し、物乞いをして食料を手に入れては、貧者とともに成都の街中にいた。土窟の中で暮らし、夏も冬も単衣を着ていた[1]。髪が長くなると5寸までの長さに切った。酒と干し肉、棗を少量飲み食いしたが、100日間食事をとっていたかと思うと、土窟から出て来なくなり絶食したという。

関羽の仇討ちのため夷陵の戦いに赴くにあたって、劉備は人をやって李意其を招き、礼を尽くして、呉を討つことの吉凶を尋ねた。李意其はこれに答えず、ただ兵馬や武器の絵を数十枚描いては一枚一枚破り捨て、そして最後には大きな身体の人物の絵を描き、それを地に埋めて立ち去った。不快に思った劉備は出兵に踏み切り、大敗を喫した。あまりの惨敗ぶりに、劉備は怒りと恥とで病み、永安宮でついに没した。李意其が人物画を埋めたのは、劉備の死を予兆したものだったという[1][2]

李意其は言葉少なで、質問されても何も答えなかった。そのため蜀の人々は、吉凶を占ってもらう際には李意期の顔色を見て、嬉しそうなら吉兆で、悲しそうなら凶兆と判断した。鄧艾が蜀に到達するより100日余り以前の頃、李意其は忽然と姿を消した。その後、瑯琊山中国語版に入ったきり出てこなかったという[1]

三国志演義』では李意という名であり、成都の青城山に住む、齢300歳を越す仙人として登場する。その容貌は「白髪だが子供のように血色が良く、碧眼で、その瞳は四角く(神仙の特徴とされる)、爛々と輝き、柏の古木のような体格」と描写される。陳震による紹介を経て劉備に招かれ、対呉戦線の戦局について再三尋ねられた李意は、兵馬や兵器の絵を描いては破り捨てた。また地面に横たわる大きな人間と、側でそれを埋めようとする人間の絵を描き、その上部に「白」と書いて去った。不愉快に思った劉備は絵を火にくべた後に進軍し、ついには敗北するに至った[3]。このように作中では、李意は劉備の敗戦のみならず、白帝城における彼の死をも予見したことになっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『神仙伝』本文では李意期

出典[編集]

  1. ^ a b c ウィキソース出典  (中国語) 『神仙伝』巻10, ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ 『三国志』巻32先主伝注引『神仙伝』
  3. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『三国志演義』第81回, ウィキソースより閲覧。 

参考文献[編集]

  • 陳寿著、裴松之注『正史 三国志 5 蜀書』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年。ISBN 9784480080455
  • 劉向・葛洪著『列仙伝・神仙伝』澤田瑞穂訳、平凡社ライブラリー、1993年。ISBN 9784582760194

関連項目[編集]