本徳寺 (岸和田市)

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明智光秀の肖像画

本徳寺(ほんとくじ)は、大阪府岸和田市にある臨済宗の寺院。京都にある臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の末寺。山号は鳳凰山、本尊は釈迦牟尼仏

南国梵桂が開基したと伝えられており、日本で唯一明智光秀肖像画を所蔵していることで有名。

沿革[編集]

開基時は、鳥羽村(大阪府貝塚市鳥羽)にあり、「海雲寺」と称していたが、兵火に焼かれた。その後、岸和田藩主・岡部行隆[1]の命で寺号を「本徳寺」と改め、岸和田の地に移転した。

南国梵桂和尚[編集]

寺を開基した南国梵桂は、一説には明智光秀の長男・明智光慶だと言われる。光慶は出家し、妙心寺の塔頭瑞松院[2]に住して「玄琳」を名乗った。

瑞松院は、江戸初期には光秀の妻・煕子[3]の実家である旗本妻木氏檀那となっていた。また、玄琳の師は大心院[4]主・三英瑞省で、光秀の三女・珠[5]細川ガラシャ)の夫・細川忠興が檀那となっていた。

光秀生存説や伝承[編集]

「放下般舟三昧去」[編集]

肖像画には「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されている。光秀は生き延びており、僧になった後、寺を出たという意味に読み取ることができる。

「輝」「琇」[編集]

位牌の戒名は、「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」。肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と書いてある。この戒名の「輝」「琇」の字のなかに「光秀」という名前が隠れている。

「当寺開基慶長四巳亥」[編集]

光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」、つまり「1599年(慶長4年)に当寺を開基した」と記されている。光秀の位牌に書かれているということは寺を開基したのが光秀で、しかも慶長四年に光秀が生きていたことになる。

可児から日光を向くと真後ろは岸和田(貝塚)になる

かごめかごめの歌詞「後ろの正面誰」[編集]

書籍『陰謀と暗号の歴史ミステリー』[6]によると、童謡に隠された暗号として、かごめかごめの歌詞「後ろの正面誰」の正体が明智光秀=天海説の証拠として紹介されている。光秀の出身地(岐阜県可児市)から日光(日光東照宮)[7][8]の方向を向くと、「後ろの正面」はちょうど、本徳寺がある大阪府岸和田市貝塚市)になる。つまり、日光東照宮創建にかかわりが深い天海の正体が、実は明智光秀であることを暗に示しているという説である。

鳥羽の俗謡[編集]

鳥羽(貝塚市鳥羽)にあった「大日庵[9]」に、光秀が亡命してきて隠棲していたということで、鳥羽の俗謡に、

鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居

と伝えられている。

所在地[編集]

〒596-0055 大阪府岸和田市五軒屋町9-13

交通アクセス
南海本線岸和田駅から徒歩8分

脚注[編集]

  1. ^ 桶狭間の戦い時に今川の出城鳴海城を護っていた岡部元信は、行隆の曾祖父の弟。三の丸神社(岸和田市岸城町・岸和田城三の丸)(岸和田だんじり祭発祥の神社)から今川義元の兜が発見された。鑑定の結果は本物
  2. ^ 1574年(天正2年)、滝川一益によって建立、明治維新後廃院。
  3. ^ 光慶・珠の生母。
  4. ^ 妙心寺の塔頭。
  5. ^ 玉とも言う。
  6. ^ 2008年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社笠倉出版社
  7. ^ 日光の輪王寺慈眼堂には天海の廟所がある。
  8. ^ 「よあけのばんに」の解釈として、「夜明けの晩」つまり「夜明け」の「晩=終り(朝が始まりなら晩は終り)」であり、「夜が明ける終りの部分」つまり「日の出=日光を見る(日光東照宮の方向を見る)」を指しているという説がある。
  9. ^ 海雲寺を開基する前の庵寺。

座標: 北緯34度27分47.5秒 東経135度22分26.7秒