朝倉毎人
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朝倉毎人 あさくら つねと | |
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生年月日 | 1882年5月21日 |
出生地 |
日本 大分県直入郡 (現・大分県竹田市) |
没年月日 | 1971年8月10日(89歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業 |
前職 | 実業家 |
現職 | 実業家 |
所属政党 | 立憲民政党 |
親族 | 父・朝倉親為(衆議院議員) |
選挙区 | 大分県第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1936年2月20日 - 1937年3月31日 |
朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月21日[1][2] - 1971年〈昭和46年〉8月10日[3])は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、竹田市名誉市民。
経歴
[編集]大分県直入郡、のちの豊岡村[4](竹田町、豊岡村(第二次)を経て現:竹田市)で、公吏朝倉親為の五男として生まれる[2][4][5]。1900年(明治33年)大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)を卒業[4]。第五高等学校法科を経て[4]、1907年(明治40年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した[2][3][4][5]。
富士瓦斯紡績(現:富士紡ホールディングス)に入社[4]。同社常務取締役、静岡県方面委員、朝鮮産業経済調査委員、満州紡績取締役、第二富士電力取締役、大井川鉄道取締役、富士電力取締役、日産自動車専務取締役、明和紡績社長、明治紡績社長、日本自動車配給社長、日本機械輸出振興取締役などを務めた[2][3][4][5]。
1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で当選し[4][6]、衆議院議員に1期在任した[3]。戦後、公職追放となった[4][7]。追放解除後、日本パーカライジング役員を務めた[4]。
竹田市の町づくりに協力し、岡城址の国史跡指定への協力、保育園建設のための土地提供などを行い、竹田市名誉市民となった[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局、1936年。
- 『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。