曹浩森
曹浩森 | |
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『最新支那要人伝』1941年 | |
プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年) |
死去: |
1952年(民国41年)2月5日 台湾台北市 |
出身地: | 清江西省南康府都昌県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 曹浩森 |
簡体字: | 曹浩森 |
拼音: | Cáo Hàosēn |
ラテン字: | Ts'ao Hao-sen |
和名表記: | そう こうしん |
発音転記: | ツァオ ハオセン |
曹 浩森(そう こうしん)は中華民国(台湾)の軍人。馮玉祥率いる国民軍などで参謀長の要職を務め、後に国民革命軍でも活動した軍人である。名は明魏だが、字の浩森で知られる。
事跡
[編集]孫文支持派として
[編集]初めは旧学を学んでいたが、後に軍人を志し、江西陸軍小学堂、南京陸軍第4中学に入学する。1909年(宣統元年)[1]、日本に留学し、東京振武学校に入学した。1911年に卒業・帰国し、翌1912年(民国元年)に江西都督府で任用されている。まもなく、保定陸軍軍官学校第1期歩兵科として入学したが、卒業はしなかった。1913年(民国2年)夏、李烈鈞配下として第二革命(二次革命)に参加したが、敗北して日本に亡命する。その後、南洋へしばらく外遊した。
1915年(民国4年)12月に護国戦争が勃発すると、曹浩森は直ちに帰国し、李烈鈞率いる護国軍第2軍で参謀庁上校課長に任ぜられた。翌年、第2軍の広東攻略に参加し、戦後に第2軍が駐粤滇軍第3師、第4師の2個師に改編されると、曹は第3師第31団団長となっている。1918年(民国7年)以降は孫文(孫中山)の護法運動に参加し、粤贛湘辺防軍務督弁署副官長、大元帥府少将高参、援桂第3路軍参謀長を歴任した。1920年(民国9年)、孫文の侍衛副官に任ぜられ、翌1921年(民国10年)に曹は再び日本に留学し、陸軍大学校で学ぶ。
国民軍から国民革命軍へ
[編集]1924年(民国13年)に卒業・帰国すると、曹浩森は孫文の総侍衛に任命された。翌年3月に孫が死去すると、曹は李烈鈞の推薦により馮玉祥率いる国民軍に加入した。1926年(民国15年)初めに西北辺防督弁署参謀長に任ぜられ、同年5月の南口大戦でも指揮に加わっている。同年9月、五原誓師により国民軍が国民聯軍へ改組され、曹が引き続き参謀長を務めた。翌年の国民革命軍第2集団軍への改組でも総参謀長となっている。
1928年(民国17年)3月、曹浩森は国民政府軍事委員会委員を兼任し、10月に江西省政府建設庁庁長に就任、さらに11月には軍政部陸軍署署長に移っている。1931年(民国20年)1月、軍政部常務次長に昇進し、 1932年(民国21年)4月、軍事委員会第2庁陸軍軍事処処長となった。同年夏には豫鄂皖剿匪総司令部参謀長として中国共産党(紅軍)討伐に従事している。1935年(民国24年)4月、陸軍中将位を授与され、1936年(民国25年)12月には軍政部政務次長となっている。
日中戦争、晩年
[編集]日中戦争(抗日戦争)勃発後も、曹浩森は引き続き軍政部政務次長を務め、抗戦体制の整備に尽力した。1942年(民国31年)2月、江西省政府主席に就任、さらに翌年5月には全省保安司令も兼ね、対日戦の指揮に加わっている。1945年(民国34年)5月に中国国民党第6期中央監察委員に選出された。
戦後の1946年(民国34年)3月、曹浩森は江西省政府主席を辞任、同年11月に制憲国民大会代表に選出された。翌1947年(民国36年)3月には監察院監察委員に就任している。同年冬、陸軍上将位を授与され、予備役に退いている。国共内戦で国民党が敗北すると、曹も台湾へ逃れた。
1952年(民国41年)2月5日、台北市にて病没。享年67。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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