川勝隆雄

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川勝隆雄
時代 江戸時代中期
生誕 宝永元年(1704年
死没 明和8年1月22日1771年3月8日
改名 一無(隠居後の号)
別名 庄大夫、登之助、権之助(通称)
戒名 淨哲(法名)
墓所 東京都港区赤坂の法安寺
官位 布衣(六位)
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川吉宗家重
氏族 川勝氏
父母 父:某(川勝氏)、母:某氏
養父:川勝隆明
兄弟 川勝隆雄
正室:川勝隆明の娘
養子に隆忠川勝隆盛の長男)、
女子(神保忠能室)、女子(稻葉通昆室)、
女子(牛込勝音室)
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川勝 隆雄(かわかつ たかかず)は、江戸時代中期の旗本。隆尚流川勝家の3代当主。

生涯[編集]

宝永元年(1704年)、川勝氏の男子として江戸に生まれ、後に川勝隆明の婿養子となった。享保元年(1716年)9月朔日、13歳で初めて将軍徳川吉宗に謁見した。享保20年(1735年)5月16日、義父隆明の隠居により、家督(上野相模内2,800石)を継いだ。

元文2年(1737年)12月4日、江戸城西の丸の小姓組に列した。元文5年(1740年)正月11日、使番に転じ、寛保元年(1741年)12月19日に布衣を着る事を許された。延享4年(1747年上野国館林城松平右近将監武元に与えるため[1]、同年正月15日、現地に赴き城引渡しの役を務めた。宝暦2年(1752年)10月18日、職を辞し寄合に列し、宝暦8年(1758年)9月18日に隠居した。家督は養子の隆忠に譲った。

明和8年(1771年)正月22日、68歳で没した。

脚注[編集]

  1. ^ 延享3年(1746年)5月15日、松平武元は西丸老中となり、陸奥棚倉藩から上野館林藩に国替となった。

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年


先代
隆明
川勝知氏系隆尚流
3代:1735年 - 1758年
次代
隆忠