岩崎美和

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岩崎 美和(いわさき みわ、文化11年7月20日1814年9月3日) - 明治33年(1900年3月14日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。土佐藩地下浪人岩崎弥次郎の妻。名は三輪、美輪とも。子に三菱財閥創始者・岩崎弥太郎、三菱財閥2代目総帥・岩崎弥之助など。

生涯[編集]

医者・小野慶蔵の次女[1]として、土佐国に生まれる。姉・ときは岡本寧浦に嫁いだ。文政10年(1827年)に父が亡くなると、土佐藩士・五藤正応に奉公するようになる。天保2年(1831年)に岩崎弥次郎に嫁し、弥太郎・弥之助ら3男2女をもうけた[2]

安政2年(1855年)に、酒飲みで仕事をしない夫が庄屋の島田便右衛門との争いを原因に病床に伏し、このことを官を訴えた長男の弥太郎も投獄された。この事件で岩崎家はさらに困窮を極め、美和が家のやりくりを一手に担うことになったが、この赤貧洗うがごとき状況を美和は持ち前のがんばりで何とか乗り切った。

後年、明治に入って岩崎家が隆盛するにあたっては、岩崎家に訓戒を残すなど家政の重鎮として重きをなした。

親族[編集]

実業家豊川良平は、美和の甥にあたる(豊川の父・小野篤治は美和の兄弟[3]である)。また、近藤廉平の妻である従子は、豊川良平の妹で美和の姪にあたる。

その他[編集]

美和が明治7年(1874年)に土佐を離れる際に、近所の知人にあげた貯金壺(へそくり壺)と中に入っていた小銭が平成22年(2010年2月に知人の子孫の家から見つかった[4]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎彌太郎傳(上)』p.93 東京大学出版会 1967年11月20日発行
  2. ^ 岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎彌之助傳(上)』p.10 東京大学出版会 1971年8月1日発行。但し弥次郎・美和夫妻の次男は夭折しており、三男の弥之助が戸籍上は次男となっている。
  3. ^ 『岩崎彌太郎傳(下)』(岩崎家傳記刊行会 編纂、東京大学出版会、1967年11月20日発行)のp.623によると篤治は美和の兄となっているが、同じく岩崎家傳記刊行会が編纂した『岩崎彌太郎傳(上)』(東京大学出版会、1967年11月20日発行)のp.103によると篤治は慶応元年(1865年)に48歳で病死しており、そこから生年を逆算すると没時の年齢が数え年・満年齢のいずれであっても篤治は美和の弟になる。
  4. ^ 龍馬伝にも登場、弥太郎・母「へそくりつぼ」発見