山根真治郎

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山根 真治郎(やまね しんじろう、1884年明治17年〉9月 - 1952年昭和27年〉7月10日[1])は、日本ジャーナリスト。『国民新聞』、『東京新聞』などで、記者、編集者として活動し、日本最初の本学的なジャーナリスト教育組織としての新聞学院(1932年 - 1942年)を創設して学院長を務めた。

経歴[編集]

山口県玖珂郡玖珂町(後の岩国市の一部)に生まれる[2]。商人の家の長男であったが、父親の投資の失敗で家は没落したという[3]

郷里にいた頃から、下関の新聞社に寄稿するなどしていたが、1901年に単身で大阪へ移り住み、泰西学館に学びながら、大阪万朝報社の校閲の仕事などを経験した[3]

山根は、泰西学館卒業後に徒歩で上京し、皿洗いなどしながら学資を確保1907年中央大学法学部を1期生として卒業、奥田義人の推薦を得て『時事新報』記者となり、1910年に『中央新聞』へ移って、程なくして社会部長を務め、1914年には『国民新聞』へと転じた[2][4]。『国民新聞』では、相撲記者としての活動もあり、山根の名は回向院の「角力記者の碑」に残されている[5]

1924年に『国民新聞』編集局長となり、以降、1925年に東京各新聞社編集局長会座長として新聞紙法改正に関わり、1926年日本放送協会理事、日本新聞聯合社理事、1928年日本新聞協会理事など、新聞業界の様々な役職を歴任する[2]1931年に日本新聞協会附属新聞学院学院長となり、翌1932年から1942年まで学院の運営にあたった[2]。学院長であった山根は、新聞学院の『学報』にジャーナリズムや、新聞法制に関する論文をしばしば寄稿した[6]

この間、1933年には、『国民新聞』を副社長で退社し、新聞の現場をいったん離れる形となった[7]

新聞学院長を退任後は、1942年に『中部日本新聞』編集顧問、1943年に『東京新聞』常務理事編集局長となった[2]1944年には、朝日新聞の新人記者だったころに新聞学院で学んだ康治郎を娘婿として養子に迎えた[8]

戦後は、1946年に東京新聞を退社し、日本新聞協会の法制委員会委員となり、その後も、1947年東京タイムズ相談役、1948年徳島新聞顧問となった[2]1948年には、慶應義塾大学で非常勤講師として教鞭を執った[2]。また、1947年第1回参議院議員通常選挙全国区から民主党公認で立候補したが落選した[9]

見解[編集]

山根は、関東大震災から15年後の1938年に刊行した『誤報とその責任』の中で、誤報の原因のひとつとして「風説」について論じる中で、朝鮮人が暴動を起こしているとする大震災当時の虚報に言及し、「常軌を逸した誤報を重ねて」いたと当時の報道を評している[10]

戦時中の1944年7月、東條内閣に代わって小磯内閣が成立し、緒方竹虎国務大臣として入閣して、言論人として初めての情報局総裁となった際には、「情報宣伝の主管者になったことに大きな意義」があると評した[11]

戦後、新聞の戦争責任が議論される中、山根は戦時中の言論統制用紙統制右翼の襲撃などを挙げて、新聞に責任はないと言い切り、総懺悔的な議論より、真の戦争責任者の追及を優先すべきだと論じた[12]

著書[編集]

  • 『黎明以前の群衆』民友社、1920年2月。 NCID BA33845966全国書誌番号:43029764 
  • 『新聞紙法制』啓成社、1929年10月。 NCID BN13368221全国書誌番号:47003340 
  • 『誤報とその責任』新聞学院、1938年11月。 NCID BA40293564全国書誌番号:44004412 全国書誌番号:46054383 
  • 『新聞記事の取材と表現』日本新聞協会、1939年11月。 NCID BA71002702全国書誌番号:46059762 

脚注[編集]

  1. ^ “山根真治郎氏(訃報)”. 朝日新聞・夕刊: p. 3. (1952年7月10日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  2. ^ a b c d e f g 新聞学院『年報』復刻版 山根真治郎 略年譜” (PDF). 不二出版. 2015年6月19日閲覧。
  3. ^ a b 山根芳美 (2011年11月29日). “緑地帯 新聞人二代の絆 3”. 中国新聞. http://www.c-y2.com/newspaper_ryokutitai.htm 2015年6月18日閲覧。 
  4. ^ 山根芳美 (2011年11月29日). “緑地帯 新聞人二代の絆 4”. 中国新聞. http://www.c-y2.com/newspaper_ryokutitai.htm 2015年6月18日閲覧。 
  5. ^ 山根の名は、没後に追加されたものともいう。:回向院”. 大相撲評論家之頁/坪田敦緒. 2015年6月18日閲覧。 “大正 5年 5月に初代梅ヶ谷の通称「大雷」が、「相撲道を斯くまで隆盛ならしめたのは全く筆の力である」として相撲記者の慰霊のために建てたもの...刻まれているのは以下の39人で、刻まれているままに紹介すると、以下の通りである。...国民 山根真治郎...このうち石川周行までは建立当時に刻まれていた者で、以後は「物故の都度彫り込まれたもの」(加藤成穆 同上)ともいう” - 引用中の「加藤成穆 同上」は、加藤成穆「思ひ出るまゝに(二十五)相撲記者四十年の感懐」(「野球界」昭和16年12月第二号、野球界社。
  6. ^ 春原昭彦. “推薦します 山根真治郎『学報』復刻版の意義” (PDF). 不二出版. 2015年6月19日閲覧。
  7. ^ 1933年6月7日には、春秋会、日本新聞協会、廿一日会の共済により、中外商業新報前社長の簗田きゅう次郎(「きゅう」は、 「金」に「久」)、時事新報前編集局長の伊藤正徳と、国民新聞前副社長の山根が「新聞界を去れるに対し惜別の意を表する宴」が開催されたが、山根は欠席している。:“簗田、伊藤、山根 三氏の惜別宴”. 朝日新聞・朝刊: p. 11. (1933年6月8日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  8. ^ 結婚当時、海軍の軍務に就いていた山根康治郎は、戦後は中日新聞で活躍した。:山根芳美 (2011年11月29日). “緑地帯 新聞人二代の絆 7”. 中国新聞. http://www.c-y2.com/newspaper_ryokutitai.htm 2015年6月18日閲覧。 
  9. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』540頁。
  10. ^ 山根真治郎「第六章 示唆と風説」『誤報とその責任』日本新聞協会附属新聞学院、19381、117-127頁。  近代デジタルライブラリー (69-75コマ)
  11. ^ “[検証・戦争責任](11) メディア 「言論」忘れ戦況伝えず国民鼓舞(連載)”. 読売新聞・東京朝刊: p. 3. (2006年3月3日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  12. ^ “(新聞と戦争)戦後の再出発:2”. 朝日新聞・夕刊: p. 3. (2008年3月13日). "東京新聞の編集局長などを務めた山根真治郎は、軍官による言論統制や用紙統制、右翼の襲撃などを挙げて、新聞に責任はないと言い切った。いたずらに総懺悔(ざんげ)的な反省をするより、真に責任のある者たちを追及することこそ大事だとの論である(「日本新聞報」45年12月3、6日)。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧

関連文献[編集]

  • 山根康治郎『山根真治郎』徳島新聞社、1955年。  - 遺稿集
  • 山根雄一郎『山根真治郎:遺稿・書簡・年譜』山根雄一郎、2022年。遺稿集 全国書誌番号:23756970
  • 山根雄一郎『山根真治郎 年譜』山根雄一郎、2019年 伝記 全国書誌番号:23317354
  • やまね よしみ『新聞の鬼 山根真治郎 ―ジャーナリスト養成の祖「新聞学院」をつくった男―』文芸社、2013年3月1日。 
  • やまね よしみ、四方康行『新聞の鬼 山根真治郎 資料集』クリエイティブ・ワイツー、2015年。 
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。