小笠原胤次
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 明暦3年(1657年) |
死没 | 享保3年2月14日(1718年3月15日) |
別名 | 長六、長左衛門、主膳 |
戒名 | 道浄 |
官位 | 従五位下肥前守 |
幕府 | 江戸幕府旗本・御側 |
主君 | 徳川吉宗 |
氏族 | 小笠原氏#遠江小笠原氏 |
父母 |
父:松平定之 養父:小笠原胤治 |
妻 | 正室:小笠原胤治の娘 |
子 | 女子、長澄、茂武、女子(松平定相室)、長寛、女子 |
小笠原 胤次(おがさわら たねつぐ、1657年(明暦3年) - 1718年3月15日(享保3年2月14日))は、江戸時代中期の紀州藩士、江戸幕府旗本、御側。義頼系高天神小笠原氏当主。
紀州藩士・小笠原胤治の婿養子で旗本・松平定之(久松松平家・松平定実嫡男)の五男。母は松平氏家臣奥平貞由の娘。通称は長六、長左衛門、主膳。子に長澄、茂武、長寛、娘(松平定相の妻)、娘(駒井親行の養女、小菅正親の妻)らがいる。
1716年(享保元年)、藩主・徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任すると、吉宗に従って江戸に移り、幕臣として仕え、同年5月25日より御側に任ぜられ、伊勢国安芸郡・河曲郡の内に2500石を拝領し、従五位下、肥前守に叙任される。1717年(享保2年)、常陸国筑波郡・河内郡に2000石を加増される。同年4月に致仕し、備前恒弘の日本刀を献上する。1718年(享保3年)、享年62で没する。法名は道浄。品川の東海寺に葬られた。家督は次男の茂武が相続した。