松平定実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平定実
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 慶長2年(1597年
死没 寛永9年3月21日1632年5月10日
戒名 永照院殿徳誉西巌道徹大居士
墓所 三重県桑名市東方の照源寺
官位 従五位下、信濃
幕府 江戸幕府
氏族 久松松平家
父母 父:松平定勝
母:たつ(二之丸殿、奥平貞友の娘)
兄弟 定吉定行定綱定実定房定政
正室:井上松隠の娘
定之定寛

松平 定実(まつだいら さだざね)は、江戸時代前期の旗本

生涯[編集]

松平定勝の四男。徳川家康は父方の伯父にあたる。慶長10年(1605年)、家康に初めて拝謁する。家康の命により駿府城に召され、13歳まで駿府城大奥で養育される。同17年(1612年)、従五位下信濃守に叙任。同19年(1614年)、大坂冬の陣では家康に従う。翌年の夏の陣では大功を挙げるが、軍令に違反し持ち場を離れたとして家康の怒りを買い、次兄・定行の領地に蟄居した。しかし、大和高取藩主・本多政武や伊達家家臣・片倉景綱らは、天王寺の戦い真田信繁に攻め込まれ大混乱となった徳川方の中で、その場にとどまって奮戦した定実の活躍を見届けており、伊達政宗らは「家康公より問い合わせがあれば、定実のために弁護する用意がある」と定実やその家臣に書状を送っている[1][2]元和年間には書院組頭を命ぜられるが、病により辞退。さらに、寛永元年(1624年)長島7千石、翌年には長島城2万石を賜うが、いずれも病により辞退する。同9年(1632年)、桑名で卒去。

室の井上松隠の女は延宝3年(1675年)卒去。松寿院殿永誉馨庵貞玉大姉と贈られる。

脚注[編集]