宮刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

宮刑(きゅうけい、castration)は、去勢する刑罰。この刑は世界的に実施例があるが、中国におけるものが最も有名である。

中国における宮刑[編集]

異称と語源[編集]

古代中国宮刑は、また腐刑(ふけい)、椓刑(たっけい)、陰刑(いんけい)、蚕室(さんしつ)などとも呼ばれた。「椓」は削り取る意で、外性器を損壊削除する刑罰。「宮刑」は宮廷や付属する機関で終身にわたって働かせる刑罰の意。「腐刑」の語源については多くの説があり、治癒前の傷口から悪臭を発するから、もしくは治癒後に陰部が尿で濡れるため股間から尿臭がするようになるからという説(悪臭説)、腐った木は芽吹かないことから子孫を作れなくすることを「腐」と称したという説(断種説)、もともと「府刑」が正しく、宮中で労働させる宮刑と同じく「府」(役所)で働かせる刑罰の意味だという説(労働刑説)、上古音では「腐」と「婦」が音通であることから股間の形状・声質・体格(脂肪の付き具合)等を女性的にする意味という説(女性化説)、外性器を縛って腐らせる事で去勢する方法があったからだという説(手術法説)、「腐」という漢字には「ドロドロに溶けて再び固まる」という意味があり(「豆腐」等)、患部が一度爛れ、再び固まる様を言ったという説(治癒経過説)、などがあり、真相は不明である。

概説[編集]

主に男性を対象とした刑罰で、死刑に次ぐ酷刑として位置付けられていた。陰茎睾丸陰嚢のすべてを切除する場合と、睾丸のみ切除する場合があった。刑罰として科す場合は前者の場合が多い。罪人に対して科されるため、代以前には、外性器を切り落とした後も十分な治療もされず、荒っぽい方法がとられたため死亡率も比較的高かったと思われる。宮刑を科された者の多くは、その後宦官となって宮廷に仕えた。景帝の時代に宮刑を廃止して美人を解放したものの、紀元前146年には死刑の代替刑として腐刑に処すことを許した(ともに『漢書』景帝紀)。武帝を批判したとして死刑とされた司馬遷が宮刑を受けて命を助けられ、後に中書令に任じられた[1]。受刑後に宦官として重用されることが多くなると、後の世には自宮、すなわち自ら性器を切り落として宦官となる人間が増加した。それに伴い、代に宮刑は一旦廃止される。自宮の増加に伴い、去勢手術の方法も洗練されていき、最終的に代には、死亡率は1%未満になったとされる。なお、一旦廃止された宮刑は代に復活し、政府の高官からを作る人夫まで、さまざまな階層の男性がこの刑に処せられた。宮廷に関係なく、その他朝鮮半島等の地域でも行われた。

女性に対する宮刑[編集]

女性の場合には、陰部を閉鎖したという説、幽閉したという説、強制労働させたという説がある。これは『礼記』に「女子は閉づ」とあり、これを陰部を閉鎖すると解釈するか幽閉すると解釈するかで説がわかれたものである。鄭玄は「宮とは丈夫は則ち其の勢を割ち女子は宮中に閉す。今の官なる男女の若き也」(『周礼』秋宮司刑鄭玄注)と述べ、班固は「宮とは女子淫すれば執りて宮中に置き出づるを得ざらしむなり。丈夫淫すればその勢を割去するなり(『白虎通』五刑)といっているように漢代では幽閉説のほうが有力だったが、実際に去勢された事例も若干数あったようである。性器を切断して生殖能力を奪ってしまえば家系が絶える事になり、先祖に対する供養を人倫の最重要項目に置く儒教においては、宮刑は宗族共同体からの追放刑として認識されていたとの説もあり、この説の場合、女性は「宗族」(父系男子共同体)の所有物とされていたとし、だから「宗族共同体からの追放刑」が女子の場合は幽閉されることになるのだという。

宮刑と腐刑は別のものという説[編集]

「宮刑」は文字通り宮中で召し使うことで「労働刑」であって、去勢を行う「腐刑」とは本質的に異なる刑罰であるとする説もある。それが、男性を宮廷での労働中に後宮などで不祥事を起こすことを避けるために、あらかじめ「腐刑」を付加したことから、両方の刑が混同されたというのである。この説によれば、「宮刑」の趣旨はあくまでも宮廷における強制労働であることから、女性を宮刑を処す場合には去勢する必要性がなかったと言える。なお、前漢の初期に作成されたとされる法令集『二年律令』の中で府刑(腐刑)に処せられたのは、強姦を犯した者と肉刑相当の罪を繰り返した者に限定されており、前者の条文には「強與人奸者、府以爲宮隷臣」と記され、腐刑と宮廷での労働が合わせて科されたことが知ることが出来る。去勢手術法の違いで股間の見た目が異なり、黄河文明以来の系統をひく帝国での手術法が「椓刑」で(この説の場合「宮刑」は去勢ではなく労働刑)、戦国期から登場したの手術法が「腐刑」(これは途絶えて名称だけが別名として残る)だとも、また別の説では秦代以前から地方には睾丸を残す手法があったともいう。

日本における去勢刑(羅切刑)[編集]

通説では日本では中国から宮刑を取り入れなかったとされているが、『日本書紀』に表れる「官者」という言葉に宦官の意味もあることから、雄略天皇の頃には少なくとも一時的には日本にも宦官がいたのではないかとする説がある。その後の日本における宮刑の法典への記載例としては、「建武式目」の中の宮刑の記述があり、その方法は、「後太平記」に、男はヘノコを裂き(陰茎陰嚢を切取る)、女は膣口を縫い潰して塞ぐと記録されている。実際の執行例としては、土御門天皇の代、1207年(承元元年)に法然の弟子である法本坊行空安楽坊遵西が、女犯の罪で羅切の刑に処せられたとの「皇帝紀抄(巻7)」の記録がある(実際は斬首であったとも[2]承元の法難を参照のこと)。

その他著名な伝説としては、本州西部の有力守護大名であった大内義隆の遺児、歓寿丸(実在人物か不明)の逸話が挙げられる。義隆が家臣陶晴賢の謀反によって、1551年天文20年)9月1日、長門大寧寺に攻め滅ぼされたとき、残された歓寿丸は、女装して逃げ山中に潜伏したが、翌年捕らえられて殺害されたという。その際、歓寿丸本人すなわち男児である証拠を求めた陶軍が、遺体の男根を切除して持ち去ったとする伝説(異説では捕らえられた際に生かして放免する代わりに本人が出家することと子孫を断つため去勢されたともいう)があり、山口県俵山温泉近くにあるその現場には、歓寿丸を哀れんだ村人によって、現在、麻羅観音という神社が造られている。

日本語の俗語で、陰茎または男性器の切断を「羅切」とも言うが、必ずしも宮刑と同義ではない。

現在のアメリカ合衆国における去勢刑[編集]

アメリカ合衆国の一部の州において、性犯罪者に対して、本人の希望により、あるいは懲役刑との自由選択の形で、去勢刑が行われている。 実施方法は、多くは薬物注射で睾丸を萎縮させる「化学的去勢」といわれる方法を取るが、テキサス州においては、手術による睾丸摘出が実施されており、1997年2007年の執行例がある。

宮刑に遭った著名人[編集]

参考文献[編集]

  • 三田村泰助著『宦官――側近政治の構造』中央公論新社[中公新書]、ISBN 4121000072。[中公文庫BIBLIO]、ISBN 4122041864

脚注[編集]

  1. ^ 宮宅潔「秦漢刑罰体系形成史への一試論-腐刑と戌辺刑-」(初出:『東洋史研究』第66巻第3号(2007年)/改題所収:宮宅『中国古代刑政史の研究』(京都大学学術出版会、2011年) ISBN 9784876985333 第2章「秦漢刑罰体系形成史試論-腐刑と戌辺刑-」
  2. ^ 辻善之助『日本仏教史』v.2, p.328ff. では「羅」が「頸」の誤写であろうとしている。

関連項目[編集]