安東愛季
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文8年(1539年) |
死没 | 天正15年9月1日(1587年10月2日) |
別名 | 近季 |
戒名 | 龍隠院 |
墓所 | 福島県田村郡三春町荒町の龍隠院 |
官位 | 従五位下、侍従 |
氏族 | 下国安東氏→秋田氏 |
父母 | 父:安東舜季、母:安東尭季の娘 |
兄弟 | 愛季、茂季 |
妻 |
正室:砂越宗順の娘 側室:畠山清信の娘 |
子 | 業季、実季、英季(小浜藩家老)、季勝、娘(浪岡顕村正室) |
安東 愛季(あんどう ちかすえ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての出羽国の戦国大名。檜山系安東氏第8代当主。
生涯
長く分裂していた檜山系と湊系の安東氏を統一し、安東氏の戦国大名化を成し遂げた智勇に優れた人物であったと言われている。統一の経緯には諸説があり不詳であるが、婚姻関係と養子縁組とにより檜山系が湊家を事実上吸収したものと推測されている(そもそも愛季の父母はそれぞれ檜山、湊出身である)。更に半ば独立勢力であった国人の浅利則祐を討って、その弟の勝頼を傘下に置き勢力を拡大した。永禄7年(1564年)から南部領に侵攻し鹿角郡獲得を目論むが、これは永禄12年(1569年)に南部晴政に阻まれた。
領土経営に関しては、従来、湊家が低率の津料を支払うことを条件に認めてきた雄物川上流域の大名、国人による湊における交易を統制することにより、旧来の蝦夷地貿易などの外海交易に加え河川交易への統制強化(江戸時代においても、庄内藩が最上川流域・秋田藩が雄物川流域に対し津料制を柱とする河川交易統制を敷き、内陸諸藩の主要問題となっていた)を断行しつつ、土崎港を改修して北日本最大の港湾都市に育て上げた。また、近隣国人衆への支配も強化しようとした。
このため元亀元年(1570年)には、豊島玄蕃らによる湊騒動が起こり、豊島氏に同調した大宝寺氏も由利郡へ進軍してきた。この一連の紛争は、大宝寺義氏の自壊にも助けられて安東家の優勢に終わり、由利郡の大半は愛季の勢力下に入った。このとき安東家の軍勢は、三崎山を越えて酒田まで侵攻したと云われる。
また、天正元年(1573年)から天正10年(1582年)まで織田信長に毎年の貢物を贈ることで誼を通じ、信長の死後は羽柴秀吉と誼を通じるなど、中央権力とも連絡を密にしており、天正5年7月22日(1577年8月6日)には従五位下に、天正8年8月13日(1580年9月21日)には従五位上侍従となるなど、安東氏の最盛期を築き上げたと伝えられている。また、晩年には名字を安東から秋田へと改めている。
更に比内地方の浅利勝頼を、蠣崎慶広を使い謀殺。出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、内陸部に進出し雄物川流域の支配権を巡り戸沢氏との戦いに向かったが、1587年(天正15年)、角館城主戸沢盛安と戦った際、仙北淀川の陣中で病死した。
ルイス・フロイスの永禄8年(1565年)2月28日付け書簡には、「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭頗る長き蛮人之に住す。(中略)蝦夷に近きゲスエン地方に秋田という大市あり。彼等は多数此市に来りて貿易し、秋田人も亦時々蝦夷に赴く」とあり、代々蝦夷との交易を管理してきた檜山系安東氏として、湊系との統一後も北方交易を行っていることが分かる。
文武に秀で、秋田郡・檜山郡・由利郡などを版図に収めて羽後(出羽北半)最大の大名となった彼は、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された[1]。
肖像画
脚注
- ^ 森山 2006,pp.166-
参考文献
- 海保嶺夫 『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691
- 塩谷順耳ほか 『新版県史 秋田県の歴史』 山川出版社、2001年、ISBN 4634320509
- 渋谷鉄五郎 『秋田「安東氏」研究ノート』 無明舎出版、1988年、ISBN 4895442039
- 森山嘉蔵 『安東氏―下国家400年ものがたり』 無明舎出版、2006年、ISBN 4895444244
- 土崎港町・秋田市合併五十周年記念誌編纂委員会 『土崎の史誌-土崎港町・秋田市合併五十周年記念誌』 土崎史談会、1992年
関連項目
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