女衒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

女衒(ぜげん)は主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種である。歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられている。

概要[編集]

由来[編集]

日本では、古くは女見といったことがあるらしい。「七七四草」には「女見の女を衒(う)るところより、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。女見は文字通り娼婦としての商品価値を見極める意で、その目利きの良い者を呼んだ。

行い[編集]

江戸時代の女衒は、身売りの仲介業として生計を立てていた。女衒が貧しい家の親や兄や眷属などから、女性を買い遊郭などに売った。女衒の定義としては広義に、時として人さらい・誘拐犯など反社会的勢力と直接的・間接的に通じていたとされる。

側面[編集]

江戸時代の女衒は多くの場合、表向きは、年季奉公の前借金前渡しの証文を作るが、実態は身売りであり人身売買であった。彼らのコミッションは身売り額の10%~20%である。吉原を例にとると、身売り額の半分近くが女衒のコミッションをはじめ、交通費、新生活を始めるための家財道具一式の費用、その他、諸経費などに引かれた。

職能・職域[編集]

職能[編集]

風来山人の細見「嗚呼御江戸」の跋にあるように、目鼻から爪の先、指のそりよう、あゆみぶりまで注意して、そののち価格がさだまるから、女性をみる術に秘伝があるとされた。具体的には「鑑定の秘伝、極意」とも呼ばれ、鑑定の評価として極上、上玉、並玉、下玉という格付けがあった。

職域[編集]

雇人口入と身元保証営業の公認者、または公の周旋業者で主として芸娼妓紹介人といって斡旋するものをいう。荷出し、玉出し、手引きなどという下働きを肝いりといって区別した。広義にはもぐりの周旋業者、紹介人などをも含めて女衒といい、遊廓や岡場所、貸座敷業には必要欠くべからざるものであった。

歴史[編集]

江戸時代[編集]

老中松平定信の時に江戸幕府はこれを遺憾とし、寛政7年吉原規定証文の作成励行の前、寛政4年5月に女衒禁止令ともいうべき法文を発布、これを以て女衒を単に遊女奉公の口入れにとどめ、証書の加印を廃止し、廓内に居住させ名主がこれを監督するという条件で許可を得て存続させた。その一方で加印のある証書は遊女の親族にあらため、女衒の慣習上の権利を剥奪した。この結果、公認・非公認の女衒による合法・非合法の二極化が進行することとなった。

しかし、このようなモグリに対する取締令も効果は薄く、すでに各地に根を張っていた非公認非合法な女衒は法の網をかいくぐって岡場所や宿場女郎を扱い続けた。一方、公認合法な女衒は、天保年間には新吉原関係の女衒だけでも廓外の浅草田町や山谷付近に14、5軒の家を構えた。その中でも山谷の近江屋三八なる女衒は10余人の子分を使って自らも各地を奔走し、扱った公娼の遊女は数百人にのぼる。

江戸城下の女衒は、現在の東京都台東区荒川区をまたにかける山谷地区に多く点在していた。

明治時代から現在[編集]

明治時代人身売買禁止法が制定された後も貧しい家では女衒により売買が続行され、娼婦として売り飛ばされていった(からゆきさん参照)。

大正15年(1925年)に日本は国際連盟の「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」を批准しているが、大正昭和の日本では内地(本土)の女性以外にも日本領朝鮮台湾から女性を、女衒の仲介を経て慰安婦にしたり、遊郭に売られたりした。

このような行為は高度成長期初めまで続くが、昭和三十四年に政府が売春防止法を施行して公娼制度を廃止すると、それと同時に女衒も自然消滅したが、現代でも特定のイベントや映像・写真撮影会等で女性[1]が必要な時、風営法による飲食店・ホテル・テーマパーク、パーティー業者が行う派遣要員による酒席における接待行為等は、一部で芸能事務所プロダクション)からその人材の斡旋をうけていることがある。 これらは必ずしも違法性を伴うものではないが、現代の女衒と揶揄されることがある。

現在[いつ?]では、上記のような接待行為に係わる人材派遣(特に外国人による接待行為)の仲介業に対して「ヒューマントラフィッキング」という言葉が使われている。

関連書籍[編集]

  • 愛しのアイリーン』 - ジャパゆきさん・女衒を扱った漫画書籍
  • 『歌舞伎町午前零時/女衒の夜』 (武内晃一)出版社: 河出書房新社
  • コミック『女衒~ぜげん~』 出版社: 芳文社
  • 新宿スワン』 - 新宿歌舞伎町の風俗スカウト業、女衒を扱った漫画書籍

脚注[編集]

  1. ^ キャンギャル、モデル、レースクイーン、マネキン等と呼ばれる。

関連項目[編集]