太良鉱山

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太良鉱山(だいらこうざん)とは、秋田県山本郡藤里町にあった鉱山である。

太良鉱山跡地

概要[編集]

伝承(『藤里の民話』)によると、この地にいた賊を坂上田村麻呂が征伐した際に、賊をたいらげたということで、この地に「平(たいら)」という名前を付けたと言われる。坂上田村麻呂はこの地には来ておらず、単なる伝承である。太良鉱山に関しては「平銀山」という記述も見られる。

また、『水無の記録』によると太郎という人が鉱口を見つけたため、最初は太郎鉱山と呼ばれたが、縁起を担ぐために一字を変えて「太良鉱山」としたとする伝承も残されている。

江戸時代には藤琴川下流の加護山製錬所阿仁鉱山から採掘される鉱石から銅を製錬するために必須な鉛を主に生産した。

歴史[編集]

  • 太良鉱山の山神社には、大同年間の鰐口があり、この頃発見されたとする伝説もある。しかし、文永年間に金堀吉治が発見したとも言われている。慶長年間には、藤琴銀山として知られていた。
  • 1661年 - 歌川庄兵衛が鉛を採鉱した。
  • 1802年 - 菅江真澄がこの地を訪れ、数々の記録を残している。
  • 1817年 - 鉱山は久保田藩の直営となった。
  • 1855年 - 古河市兵衛が所有し、明治24年には銅15.5t、鉛41.9tを生産した。
  • 1875年 - 日露戦争のため亜鉛鉱の値段が上がり、亜鉛鉱を採掘しはじめる。
  • 1920年 - 大戦後の不況により、休山となる。
  • 1935年 - 再び採鉱を開始した。
  • 1958年 - 大洪水のため輸送網であったトロッコが壊滅的な被害を受け、鉱山も休山となった。

菅江真澄の記録[編集]

菅江真澄1802年3月12日、大良鉱山を訪れた。13日朝早く出かけると精錬所の多くの人が集まり作業を行い、女達が作業歌を歌っていた。当時、八百八口と言われるほど多くの数の鉱口があり、山にも谷にも蜂の巣のように鉱道があることを記録している。15日太良鉱山東方一里にある箭櫃(やびつ)鉱山(山を越えた早口川流域にあった鉱山。1681年に太良鉱山に付随する鉱山として開発され、現在も太良鉱山と私道が通じている)に行こうと台所沢を登った。箭櫃鉱山にも600-700もの鉱口がありここでも作業をする女性の声が水音と共に響いていた。4月8日愛宕山にある堂に詣る人々に混じって真澄も川を渡り山をよじ登って堂を参拝した。ここには、大同年間の鰐口があったとするが、盗人に持ち去られたとしている。この後、真澄は水無沼を通り川を下り、別の地区を探索した後、6月15日に再度太良鉱山を訪れる。18日わずかな足跡をたどり藤琴川を更にさかのぼる。白石沢と黒石沢の合流部から、番楽の沢をわけいり薬師山に登る。ここからは、多くの炭焼きの煙が見え、森吉山も望むことができた。(菅江真澄『しげき山本』)

エピソード[編集]

  • 学校法人川村学園の前身となる川村女学院を創設した川村文子は、父が太良鉱山の医師だったため、幼少期に太良鉱山で過ごしている。
  • スーパーマーケットチェーン伊徳の2号店が太良鉱山にあった。1923年秋から営業を開始し、第二次大戦期は営業を停止したものの、大洪水で閉山した後の、全ての労働者が下山する1959年まで営業していた。
  • 太良鉱山は江戸時代、一時期伊多波武助が経営していた(伊多波は太良鉱山の山を越えた所にあった箭櫃鉱山を経営していた)。伊多波が寄進した石塔が敷地内に現在でも残されている。

参考文献[編集]