大阪市立柏里小学校

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大阪市立柏里小学校
大阪市立柏里小学校
過去の名称 西成郡鷺洲第五尋常小学校
大阪市鷺洲第五尋常高等小学校
大阪市柏里国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
校訓 強く 正しく 朗らかに
設立年月日 1924年10月15日
創立記念日 10月15日
創立者 西成郡鷺洲町
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 555-0022
外部リンク 公式サイト
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大阪市立柏里小学校(おおさかしりつ かしわざと しょうがっこう)は、大阪府大阪市西淀川区にある公立小学校

西淀川区南東部の柏里・花川を校区とする。

沿革[編集]

学校所在地周辺は、大阪市編入前は西成郡鷺洲村(1911年町制を施行して鷺洲町)に属していた。

鷺洲村は現在の北区福島区・淀川区・西淀川区にまたがる広い村だったことに加えて、新淀川の開削によって北部の塚本(現在の淀川区塚本および西淀川区柏里付近)および海老江新家(現在の西淀川区花川付近)が飛地状の地域になっていた。そのため1910年に塚本に西成郡鷺洲尋常高等小学校(現在の大阪市立鷺洲小学校)の分教場が設置され、塚本・海老江新家在住の1・2年児童が通学したことが、学校の始まりとなっている。

1912年には西成郡鷺洲第三尋常高等小学校(現在の大阪市立海老江西小学校)が開校した。これに伴い分教場は鷺洲第三校の分教場へと移管されている。

高学年児童は本校である鷺洲尋常高等小学校・鷺洲第三尋常高等小学校まで通学していた。

1924年10月15日付で鷺洲第三尋常高等小学校より独立し、鷺洲町大字塚本539番地(のち西淀川区西塚本町2-5、1943年柏里町に町名変更。現在の塚本駅西出口付近)に西成郡鷺洲第五尋常小学校として開校した。翌1925年には鷺洲町が大阪市に編入したことに伴い、大阪市鷺洲第五尋常高等小学校と称した。

国民学校令により、1941年には大阪市柏里国民学校へ改称した。柏里は付近の地名からとられた。神功皇后三韓征伐の伝説に関連し、この地での葉に餅をのせて献上したという伝説が残ることから、柏里の地名がついたと伝えられている。

また1941年4月には西淀川区(1943年区の境界変更により東淀川区)塚本町3-10に第一分校を設置している。さらに1941年7月には西淀川区野里町178-3に第二分校を設置した。

第一分校は1946年に大阪市田川国民学校(現在の大阪市立田川小学校)分校へ移管され、1949年に大阪市立塚本小学校として独立している。また第二分校は1947年に大阪市立歌島中学校敷地として転用された。

太平洋戦争の戦局悪化により、1944年以降学童集団疎開が実施されることになった。各行政区ごとに疎開先の府県が割り当てられ、西淀川区の国民学校では香川徳島両県と大阪府三島郡への疎開が決まった。柏里国民学校では徳島県板野郡北灘村(現在の鳴門市)と大阪府三島郡五領村(現在の高槻市)への疎開が実施され、現地の北灘東国民学校(現在の鳴門市北灘東小学校)・五領国民学校(現在の高槻市立五領小学校)を借用して授業を実施した。

1945年6月15日大阪大空襲では、本校と第一分校を全焼する被害を受けた。

1947年の学制改革により大阪市立柏里小学校となった。当時の敷地は国鉄塚本駅前にあり、駅に近すぎて騒がしいことや、近くに高圧線の鉄塔があったことから、1950年頃から学校移転の話が具体化した。空襲で焼けた現在の土地を買い入れて移転用地とし、1953年11月に現在地に移転している。旧敷地は現在地移転後もしばらく分校として使用したが、分校は1960年3月に閉鎖している。

1970年代前半には体育教育に力を入れていた。

年表[編集]

通学区域[編集]

  • 大阪市西淀川区 柏里1丁目-3丁目、野里1丁目(一部)、花川1丁目、花川2丁目(大半)。
卒業生は大阪市立歌島中学校に進学する。

交通[編集]

参考文献[編集]

  • 大阪都市協会 『西淀川区史』、1996年
  • 大阪市立柏里小学校50周年記念誌編集委員会 『柏里 創立50周年記念誌』 大阪市立柏里小学校50周年記念事業委員会。
  • 西成郡鷺洲町役場 『鷺洲町史』、1925年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]