大湯氏

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大湯氏
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種別 武家
士族
出身地 陸奥国鹿角郡大湯村[1](現 秋田県鹿角市
著名な人物 大湯昌光
大湯昌次
凡例 / Category:日本の氏族

大湯氏(おおゆし)は、日本の氏族。

出自[編集]

大湯家は、武蔵七党横山党成田氏の系を引く鹿角奈良氏の嫡流とされ、陸奥国鹿角郡大湯村(現 秋田県鹿角市)の在名により氏とした。

歴史[編集]

鎌倉中期に鹿角に入部し、室町~戦国期にかけては安東氏や津軽氏と結び、永禄元年(1558年安東愛季の誘いに応じ名代の大高筑前と見参したり、同8年(1566年)秋田方の廻文に加判を行った一人として名を連ね、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあり、天正17年(1589年)南部信直の比内大館城攻めにはその麾下を努めている。

大湯昌光は、南部信直に仕え、大湯村及び近村2000石を領知し、大湯館城に住して、南部支族の毛馬内氏と縁戚を重ねていたが、 天正19年(1591年)の九戸政実の乱では、兄弟相対峙する状況となり、兄の彦六(五兵衛)昌忠は信直麾下の包囲軍の中に、次子四郎左衛門昌次が嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門を伴い、同郷の大里修理大夫親治と共に九戸方の重鎮として荷担したが、 大湯城は三戸方の大光寺正親勢の包囲攻撃を受けて落城した[2]ため九戸城に遁れたが、九戸城降伏のさい、政実ら主だった首謀者達として集められて栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑されたが、治郎左衛門、彦左衛門の兄弟は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門は召し出され知行200石を拝領し、彦左衛門は津軽に奉公した[3]

大湯氏の直系は、五兵衛昌忠の子 多聞之助正邦が正保年間(164448年)に死去することに及んで断絶した。

系譜[編集]

参考諸家系圖  
<<異姓之 >>
大湯氏 本名
 姓

             大湯五兵衛
               昌光
        ┏━━━━━━┻━━━━━┓
        四郎左衛門        五兵衛
        昌次           昌忠
   ┏━━━━┻━━━┓        ┃
   彦右衛門     次郎右衛門    多聞之助
   昌到       昌吉       正邦
 (津軽出奔)  (津軽出奔仕津軽)
            ┃
           津軽家出仕
            昌対

参考諸家系圖・奥南落穂集

脚注[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]