土浦東映劇場

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土浦東映劇場
Tsuchiura Toei
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 銀映座、土浦東映
本社所在地 日本の旗 日本
300-0043
茨城県土浦市中央2丁目3番7号
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 代表・支配人 小口治久
主要株主 株式会社小口商事
関係する人物 小口信治
小口登
小口治久
特記事項:略歴
明治時代 芝居小屋として開館
1956年 土浦東映劇場と改称
1995年 閉館
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土浦東映劇場(つちうらとうえいげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。成立年代は不明であるが、明治時代に芝居小屋として開業[3]、1940年(昭和15年)前後までに映画館に転向、大都座(だいとざ)と名乗り[10][11]第二次世界大戦後は土浦銀映座(つちうらぎんえいざ)[12][13][14]、のちに東映系の契約館(非直営館)となり改称した[1]

同市内に1970年代まで存在した「土浦東映ボウリングセンター」は東映の直営施設であり、本項では扱わない。

沿革[編集]

  • 明治時代 - 芝居小屋として開館[3]
  • 1940年前後 - 映画館に転向、大都座と改称[3][10][11]
  • 1949年前後 - 銀映座と改称[3][12]
  • 1956年 - 土浦東映劇場と改称[1]
  • 1995年 - 閉館[8][9]

データ[編集]

概要[編集]

正確な成立年代は不明であるが、明治時代、茨城県新治郡土浦町(のちの同県土浦市本町801番地、現在の同県同市中央2丁目3番7号)に芝居小屋として開業したとされる[3]。同町内の芝居小屋であった小野座(のちの土浦日活劇場、経営・水野好雄、東崎町、中央2丁目6番28号)は、やがて大正初年には映画館に業態変更しており[15][16][17][18]、1926年(大正15年)には、土浦駅近くに明治館(のちの土浦劇場、経営・小島定次郎、匂町3135番地、現在の桜町2丁目14番地20号)が映画館として開館[17]、1927年(昭和2年)6月には、新しく霞浦劇場(館主・内村茂、興行主・前田吟一郎、東崎町744番地、現在の中央2丁目4番16号)が開館[4]、つぎつぎに映画館が増えていった[19][20]

その後、1940年(昭和15年)前後までの時期に映画館に転向、大都座と改称して大都映画を上映していた[10][11]。同じころに土浦東宝映画劇場(経営・渡邊福一、仲町650番地)が開館して、同町内(同市内)の合計4館になっていた[10][11]。同年11月3日、市制が敷かれ土浦町は土浦市になり、1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には、土浦市内の4館の系統については記載されていない[10]。当時の同館は小口信治の個人経営であり、小口が支配人を兼務していた[10][11]。観客定員数は452名で、二階席が存在した[10][11]

戦後、同館は銀映座と改称し、大映系の封切館となった[3][12]。『映画年鑑 1950』によれば、当時の同市内の映画館は、同館のほか、戦時中から引き続き、小野座、土浦劇場、霞浦劇場、土浦東宝映画劇場の5館があった[12]。1953年(昭和28年)には、同館の館主・支配人が、小口信治から小口登に交代した[13]。同市内では、同年10月には荒川沖映画劇場(荒川沖684番地)があらたに開館[21]、翌1954年(昭和29年)には土浦東宝映画劇場が閉館、土浦大映劇場(のちのテアトル土浦、朝日町、現在の桜町3丁目4番4号)が開館している[13][14]。1956年(昭和31年)には同館が土浦東映劇場と改称[1]、翌1957年(昭和32年)には、同館の経営が、小口登の個人経営から、株式会社小口商事による企業経営に変わり、小口は同社の代表と同館の支配人を務めた[2]。同年、最後発の祇園セントラル映画劇場(現在の土浦セントラルシネマズ、経営・中島棟次、川口町、川口1丁目11番5号)が開館して[22]、合計7館になった[1]

1981年(昭和56年)からは、同館の支配人が小口治久に交代、小口登は引き続き株式会社小口商事の代表を務めた[5][6]。1986年(昭和61年)には、小口治久が小口登に代って、株式会社小口商事の代表に就任している[7]

1995年(平成7年)、閉館した[8][9]。同地は更地にされ、2013年(平成25年)現在、同館跡地の現況は駐車場である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 昭和32年の映画館 千葉県 107館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1957年1月1日号)、2013年9月5日閲覧。
  2. ^ a b c 便覧[1958], p.48.
  3. ^ a b c d e f g 『土浦映画館いまむかし』、茨城新聞、1997年1月6日付。
  4. ^ a b 霞浦劇場(土浦)が取り壊しへ 木造映画館、老朽化で76年の歴史に幕常陽新聞、2003年9月3日付、2013年9月5日閲覧。
  5. ^ a b c 名簿[1981], p.47.
  6. ^ a b c 名簿[1982], p.56.
  7. ^ a b 名簿[1987], p.51.
  8. ^ a b c d e f g 名簿[1995], p.49.
  9. ^ a b c 名簿[1996], p.50.
  10. ^ a b c d e f g h i j 年鑑[1942], p.10-48.
  11. ^ a b c d e f g h i 年鑑[1943], p.462.
  12. ^ a b c d e 年鑑[1950], p.116.
  13. ^ a b c d e 総覧[1954], p.37.
  14. ^ a b 総覧[1955], p.33.
  15. ^ キネマ・レコード[2000]復刻、p.381.
  16. ^ 年鑑[1925], p.466.
  17. ^ a b 総覧[1927], p.659.
  18. ^ 総覧[1929], p.258.
  19. ^ 総覧[1930], p.564.
  20. ^ 昭和7年の映画館 茨城縣 21館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2013年9月5日閲覧。
  21. ^ つくば教映社、公式ウェブサイト、2013年9月5日閲覧。
  22. ^ 「地元館の灯守りたい」土浦セントラルシネマズ茨城新聞47NEWS, 2009年5月13日付、2013年9月5日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『キネマ・レコード』、キネマ・レコード社、1916年
  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1950』、時事映画通信社、1950年発行
  • 『全国映画館総覧 1954』、時事映画通信社、1954年発行
  • 『全国映画館総覧 1955』、時事映画通信社、1955年発行
  • 『映画便覧 1958』、時事映画通信社、1958年
  • 『映画年鑑 1981 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1981年発行
  • 『映画年鑑 1982 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1982年発行
  • 『映画年鑑 1987 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1987年発行
  • 『映画年鑑 1995 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1995年発行
  • 『映画年鑑 1996 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1996年発行

関連項目[編集]