土倉龍治郎

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どくら りゅうじろう
土倉 龍治郎
生誕 日本の旗 日本 奈良県
出身校 同志社
職業 実業家

土倉龍治郎(どくら りゅうじろう 1870年 - 1938年10月15日は)、日本実業家土倉龍次郎と表記される場合がある。

略歴[編集]

  • 1870年(明治3年) 奈良県吉野郡川上村に生まれる
  • 1895年(明治28年)台湾へ渡る
  • 1903年(明治36年)台北電気株式会社を設立
  • 1909年(明治42年)帰国
  • 1910年(明治43年)カーネーション栽培を開始
  • 1932年(昭和7年)大日本カーネーション協会設立、会長就任
  • 1938年(昭和13年)68歳没

台湾への貢献・業績、カーネーションの父[編集]

同志社普通学校卒業の後、台湾に渡る。日本統治下の台湾において林業、樟脳採取事業で成功。台湾で初めての水力発電会社を設立した。 1万ヘクタールの山林を300年租借し、森林開発を行った。樟脳事業では「台湾製脳合名会社」を設立、大規模な生産に乗り出し、製脳窯は450基・生産従事者は2,000人を超えた。台湾初の水力発電会社「台北電気株式会社」の能力は、発電量1,000馬力というものであった。 現在の台湾で龍治郎と言えば、水力発電の父であり、近代林業の父であり、そして樟脳事業の父でもある[1]。 1909年(明治42年)本家の要請により、事業を三井物産に譲渡し帰国。翌年よりカーネーションの栽培を始める。日本におけるカーネーション栽培の先駆者として「カーネーションの父」と呼ばれている[1][2][3]。1936年(昭和11年)「カーネーションの研究:修教社書院」を犬塚卓一と共に著している。

エピソード[編集]

  • 同志社在学中、新島襄は龍治郎を高く買っていた。父庄三郎に対し「・・・龍治郎君は遠からずして[東京大学]予備門にご加入は相叶い申すべく・・・」との書簡[4]を送るが、龍治郎は父へ長文の請願書を認め、国外雄飛の夢を実現すべく台湾に赴いた。
  • 龍治郎の性格を津下紋太郎(学友で土倉家の台湾事業部総支配人、後 日本製鉄 ・日本石油 専務)は、「温厚篤実の君子人の風格を有しており、生来創業の事に趣味と才能を持ち、柔道はほとんど天才的で、剛胆さもかなりのものであった」[5]と評している。気宇壮大さと優しさを兼ね備えた人柄であったようである。
  • 龍治郎の父庄三郎は自由民権運動のパトロンと言われ、板垣退助他の人々を支援。その関係から1881年(明治14年)古沢滋等が結成した 立憲政党において新島襄と出会う。この縁で龍治郎は同志社に学びキリスト教信者となる。庄三郎は同志社設立の資金援助を行っている[6]
  • 新島は龍治郎の父・土倉庄三郎へ信頼を厚く寄せていた。晩年「小生の病症ハ早ヤ心臓病二相違無之、早晩小生ハ此之病之為二斃るへきハ覚悟せねばならさる由」[7]と、学校のこと妻八重のことを書簡で縷々述べ、庄三郎に協力を求めている。

親族[編集]

脚註[編集]

  1. ^ a b 『森と近代日本を動かした男』田中淳夫 著 洋泉社 2012年
  2. ^ 『カーネーション生産の歴史』社団法人 日本花き生産協会 2009年
  3. ^ 『「気」の十全自叙伝』河野十全 著 青葉出版 1993年
  4. ^ 『新島襄の手紙』同志社 編集・発行 岩波書店 2005年
  5. ^ 同志社談叢 第二十五号 同志社社史資料センター 編集・発行 2005年
  6. ^ 新島襄ー近代日本の先覚者』学校法人 同志社 編 晃洋書房 1993年
  7. ^ 『新島襄 人と思想』井上勝也 著 晃洋書房 1990年
  8. ^ 『カルピスの戦略』大谷進 著 読売新聞社 昭和49年・『私の履歴書 (経済人10)』 日本経済新聞社昭和55年
  9. ^ 『三島海雲 初恋五十年』ダイヤモンド社 昭和40年

参考文献[編集]

  • 自由党史(中)岩波書店 1958年
  • 吉野ー悠久の風景 上田正昭 著 講談社 1990年
  • 新島襄の交遊―維新の元勲・先覚者たち 本井康博 著 思文閣出版 2005年

外部リンク[編集]