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哀帝 (唐)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
哀帝 李柷
第23代皇帝
王朝
在位期間 天祐元年8月16日 - 天祐4年3月27日
904年9月27日 - 907年5月12日
都城 洛陽
姓・諱 李祚→李柷
諡号 孝哀皇帝(後梁太祖による)
昭宣光烈孝皇帝(後唐荘宗による)
生年 景福元年10月3日
892年10月27日
没年 開平2年2月22日
908年3月26日
昭宗
何皇后中国語版
陵墓 温陵
年号 天祐 : 904年 - 907年

哀帝(あいてい)は、唐朝の第23代(最後)の皇帝昭宗の九男。昭宣帝(しょうせんてい)とも呼ばれる[1]。また唐の皇帝としては2人目(追尊を除く)の、廟号を贈られなかった皇帝であった[1]

生涯

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初めは輝王(きおう)に封じられる。名は(そ)だったが、即位後に(しゅく)と改めている[1]

904年4月に父の昭宗が朱全忠により殺害されると、その朱全忠により擁立された[1]

しかし、禅譲のためだけに即位させられたに過ぎず翌905年2月には徳王李裕・棣王李祤・虔王李禊・沂王李禋・遂王李禕・景王李祕・祁王李祺・雅王李禛・琼王李祥ら、自身の兄弟9人が朱全忠の開いた偽りの宴会にて殺害されると、さらに6月には貴族層であった唐の朝臣も粛清された(白馬の禍)。

こうして朝廷を完全に掌握した朱全忠により、907年に哀帝は朱全忠への禅譲を余儀なくされた。こうして唐王朝は滅亡した。禅譲後は朱全忠により後梁済陰王に封じられたが、翌908年に後難を恐れた太祖朱晃(朱全忠より改名)によって曹州の済陰宮で毒殺された。享年17[2]

脚注

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  1. ^ a b c d 陳 1986, p. 114.
  2. ^ 陳 1986, p. 115.

参考文献

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