史惟亮

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史 惟亮(し いりょう、スー・ウェイリャン、1925年[1]9月3日 - 1976年2月14日)は、中華民国台湾)の作曲家民族音楽学[2][3]

生涯[編集]

遼寧省営口市[4]に生まれた。抗日戦争(日中戦争)の時期には、中国国民党の東北党務委員となり、「石立」ないし「作基」[2]という偽名を使って抗日の地下活動に従事した。第二次世界大戦後、歴史学を専攻しようと東北大学に入学したが、19歳のときに北平国立芸術専科学校へ転学して、音楽を学び始めた[5]。音楽界においては、遅いスタートであった[5]。しかし、学業は長く続けられなかった。国共内戦が勃発し、「流亡学生」の身分となった史は、1949年に台湾省立師範学院(国立台湾師範大学の前身)の音楽科へ移り、引き続き学ぶことになった[6]

その後、史は国立台湾師範大学附属高級中学の音楽教師となった。1955年、留学試験に合格し、資金の工面をした上で[6]1958年スペインに渡り、マドリード音楽院に学ぶが、程なくしてオーストリアウィーン音楽院へ転じた[5]。6年の欧州留学中、学費を稼ぐために鉱山や工場で働きながら学び続け、その苦行僧のような姿勢から、友人たちに「現代の玄奘」と評されたという[5]

1965年に台湾に戻ってからは、国立台湾芸術専科学校(国立台湾芸術大学の前身)や国立台湾師範大学、文化学院(中国文化大学の前身)などで教鞭を執り[6]、中国青年音楽図書館の建設を支援したほか、台湾における民謡の収集に取り組み、中國民族音樂研究中心を設立して、許常恵 (許常惠) らとともに民謡収集の現地調査を進めた[5]1968年には、西ドイツボン大学の招きに応じ、同大学における「中国音楽センター」の設置に協力した[6]。また、1973年から1974年には台湾省立交響楽団(後の国立台湾交響楽団)の第4代団長を務めるなど、各種音楽団体の役職を歴任した[6]

史は、嚴謹な生活を送り、酒も煙草もたしなまなかった[5]。しかし、1976年台北市において[3]肺癌のために50歳で死去した。

業績[編集]

作曲家としての代表作に、『調和』(クラリネットフルートのための二重奏)、『小祖母』(独唱曲)、『青玉案』(独唱曲)、「国立台湾師範大学附属高級中学校歌」などがある。

このほか、歌曲、合唱曲、ピアノ曲、室内楽、管弦楽、舞台音楽、映画音楽と幅広い分野の作品を残している[7]

1966年には、留学経験をまとめた著書『一個中國人在歐洲』を出版した[8]

息子の史擷詠 (史擷詠) も著名な作曲家である。

参考資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1926年とする資料もある。脚注にある国立伝統芸術センター (zh:國立傳統藝術中心) のページの記述などを参照。
  2. ^ a b 史惟亮(1925-1977)”. 國立清華大學圖書館. 2014年7月18日閲覧。
  3. ^ a b 史惟亮 SHI Wei-Liang 民族音樂學家、作曲家”. 國立傳統藝術中心 臺灣音樂館. 2014年7月18日閲覧。
  4. ^ 当時の営口県、現在の大石橋市とする資料もある。脚注にある国立清華大学図書館のページの記述などを参照。
  5. ^ a b c d e f 謝震南. “史惟亮--音樂創作道路上的苦行僧”. 大紀元. 2007年3月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年7月18日閲覧。
  6. ^ a b c d e 史惟亮 SHI Wei-Liang 民族音樂學家、作曲家 生平簡介”. 國立傳統藝術中心 臺灣音樂館. 2014年7月18日閲覧。
  7. ^ 史惟亮 SHI Wei-Liang 民族音樂學家、作曲家 作品列表”. 國立傳統藝術中心 臺灣音樂館. 2014年7月18日閲覧。
  8. ^ 史惟亮『一個中國人在歐洲』文星書店、1966年、273頁。2014年7月18日閲覧。