コンテンツにスキップ

北畑静子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北畑 静子(きたはた しずこ、1922年大正11年〉[注釈 1]3月17日 - 1990年平成2年〉7月13日[1][8])は、日本ロシア児童文学翻訳家

略歴

[編集]

福島県相馬郡原町はらのまち(現・南相馬市原町区)生まれ。本名・しず[9]。 父は逓信省無線電信技師の北畑平五郎(1894年[12][13] - 1944年[14][15][1][注釈 2]。3歳のとき父の転勤に伴い東京府荏原郡大井町[18][19]へ転居して、以降少女時代を過ごす[1]品川区立原小学校を経て[20]、1939年3月普連土女学校[注釈 3]卒業[22]GHQ民事検閲局を経て[10]、1953年1月28日国立国会図書館に勤務[23]。司書となり、勤務の傍ら日ソ学院に通いロシア語を学ぶ[10]。 雑誌に短編を翻訳して以来、ソ連チェコスロバキアの児童文学を紹介。 1979年同人の一人として同人誌『イワン』(: Иванушка)創刊[注釈 4]、主宰者の役割を果たす[24]。 1982年ごろプーシキン記念ロシア語大学通信教育学部卒業[注釈 5]。1986年3月国立国会図書館を退職。在職中は収書部外国図書課や収集整理部収集課などに属した[23]。婚姻歴がある[注釈 6]

1989年春にソ連を訪れた後、発病して1年余りの闘病生活の末、1990年7月13日に死去。68歳没[8]

著書

[編集]
  • 『燈台の絵――おじいさんおばあさんの暦』北畑静子、1979年12月。NDLJP:12410305/82  ※私家版[26]自費出版[1]
  • 『夢の共和国』(スタジオ・バク) 1987.12

共著

[編集]
  • 椋鳩十編)『ねしょんべんものがたり』(童心社、小さな心の記録シリーズ) 1971.11
    「わたしの おねしょのはなし」(146頁 - 153頁)を所収。
  • 松永伍一ほか共著)『おもいで箱』(汐文社、原爆児童文学集 20) 1985.4
    「ふつうではないおばけごっこ」を所収。

翻訳

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 福島県立図書館は北畑静子の生年を「1922年」とする[1]。北畑自身が自著『燈台の絵――おじいさんおばあさんの暦』の中で「母は十九歳で結婚して、二十歳で私が生まれた」[2][3]と記しており、同時に「十九歳の母は一九二一年(大正十年)二月十一日に結婚した」[4][5]と記述している。母・秀子は「明治三十四年」(1901年)「五月十八日」[2][3]生まれとあり、結婚翌年に「二十歳で」静子を出産したのは1922年(大正11年)の3月[6][7]のこととなる(北畑静子の没年齢を68歳[8]とする記述とも合致する)。この点、日外アソシエーツ刊の出典は静子の生年を「1923年(大正12年)」と記載している[9][10](『日本児童文学』の翻訳家一覧でも大正12年3月17日生と記載されていた[11])が、北畑自身の記述の方を優先とする。
  2. 父・平五郎は結婚した1921年から、同じ年に運用開始した原町無線塔とともに開局した磐城無線電信局原町送信所に赴任しており[16][17]、そこで翌年に静子が誕生した。静子は、1923年の関東大震災のときは原町(自著『燈台の絵』で「原の町」と表記)に住んでいたため、遭わずに済んだ。
  3. 同校は、1930年1月29日に5年制の高等女学校と同等以上の学力を有すると認められ、文部大臣指定学校となった[21]
  4. 第1号に創刊のことばを述べている。ともにウラジーミル・サンギ英語版が寄稿。
  5. 同じロシア児童文学の翻訳・研究家の田中かな子(1931年6月10日 - 1999年8月21日)は、北畑が「プーシキン大学の通信学部を終えた時、すでに六十歳になっていた」と記している[8]。卒業年について「昭和51年[10]と記載する出典よりも、田中かな子の年齢に即した具体的な記述の方を優先とする。実際、著作物等での略歴においてプーシキンロシア語大学が記載され始めるのは『燈台の絵』(1982年月発行、教育報道社刊)[20]や『児童文学アニュアル 1982』[25]からである。1976年以降に発行された『赤いノート』(1976年11月発行、6頁の訳者紹介)や『うちのマーシャ』(1979年1月発行、奥付の訳者紹介)にはまだ同大学通信学部の学歴が載せられていない。
  6. 北畑が回顧して記述した中で、戦争を経験したほかに「結婚生活の失敗」があったと記載[23]。人から扶養されずに仕事を持って生計を営むライフスタイルが性に合っていたとふり返っている。
  7. 原書のタイトル(: Тени на мосту Айои)では相生橋のことを指すものであるが、『アイオイ橋の人影』巻末の「訳者のことば」によれば、北畑静子が翻訳に際して広島市を実際に訪れ、1945年8月6日に投下された原爆が発した熱線によって人や荷車の影が焼き付いたのは万代橋よろずよばしであった(157頁)と広島市史編纂室主幹(のち同室長、広島市公文書館初代館長)の小堺吉光(1919年〈推定〉 - 1986年1月2日)から伺い、原著者において取材時の橋名の聞き違えまたは捉え違いがあったものと考え、題名を「相生橋」でなく抽象・象徴的な「アイオイ橋」に翻訳している。

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 北畑 静子(きたは-た しずこ)”. 福島県立図書館. 2025年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月10日閲覧。福島の児童文学者 30 北畑静子」『福島県郷土資料情報』45号、福島県立図書館 地域資料チーム、2005年3月、10頁
  2. 1 2 北畑 1979, p. 21.
  3. 1 2 北畑 1982, p. 24.
  4. 北畑 1979, p. 36.
  5. 北畑 1982, p. 40.
  6. 北畑 1979, p. 55.
  7. 北畑 1982, p. 60.
  8. 1 2 3 4 田中かな子「〈北畑静子氏を偲ぶ〉天性の楽天性と向学心と」『日本児童文学』第36巻第11号、日本児童文学者協会、1990年11月1日、126-127頁、NDLJP:7962061/65
  9. 1 2 日外アソシエーツ 編『現代翻訳者事典』日外アソシエーツ、1985年11月10日、188頁。NDLJP:12210357/101
  10. 1 2 3 4 北畑静子」『20世紀日本人名事典(2004年刊)』日外アソシエーツコトバンクより2025年9月10日閲覧
  11. 「主要研究・評論家・翻訳家一覧」『日本児童文学』第33巻第12号、日本児童文学者協会、1987年12月、310-343頁、NDLJP:7962026/161
  12. 北畑 1979, p. 17.
  13. 北畑 1982, p. 22.
  14. 北畑 1979, p. 88.
  15. 北畑 1982, p. 94.
  16. 北畑 1979, p. 112.
  17. 北畑 1982, p. 120.
  18. 北畑 1979, p. 132.
  19. 北畑 1982, pp. 141–142.
  20. 1 2 北畑 1982, 奥付の著者略歴.
  21. 普連土学園百年史編纂委員会 編『普連土学園百年史』普連土学園、1987年9月15日、383頁。NDLJP:13142746/206
  22. フレンド46回生文集スタジオ 編『私たちの10代』フレンド46回生文集スタジオ、1987年11月5日、103頁。NDLJP:13142939/53フレンド46回生名簿(106頁)で氏名を確認。なお、84-88頁および104-105頁に北畑静子が寄稿(編集代表も務める)。
  23. 1 2 3 北畑静「三十余年をふりかえって」『国立国会図書館月報』第300号、国立国会図書館、1986年3月20日、20-23頁。
  24. 松谷さやか「〈北畑静子氏を偲ぶ〉同人誌「イワン」と北畑さん」『日本児童文学』第36巻第11号、日本児童文学者協会、1990年11月1日、128-129頁、NDLJP:7962061/66
  25. 今江祥智ほか 編『児童文学アニュアル 1982』偕成社、1982年6月、資料篇16頁。NDLJP:12444102/217
  26. 北畑 1982, p. 9.