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内藤信庸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤信庸
時代 江戸時代中期
生誕 正徳4年(1714年
死没 天明元年12月11日1782年1月24日
別名 守之助
官位 縫殿、民部、従五位下越前
幕府 江戸幕府
旗本5000石
知行地:駿河富士郡及び駿東郡
氏族 内藤家 (信成系)
父母 父:内藤弌信、母:不明
養父:内藤信朋
兄弟 信輝信盛京極高長、女(相馬徳胤室)、
信庸、ほか
内藤信朋の養女(信朋の子信旨の娘)
娘(久世広景室)、
娘(伊東祐政室、離別後内藤正範に再嫁)、他
養子:信智(信朋の子信邦の次男)
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内藤 信庸(ないとう のぶつね)は、江戸時代旗本越後村上藩内藤家の分家当主・内藤信朋の養嗣子。

生涯

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正徳4年(1714年)、村上藩主内藤弌信の七男として生まれる。元文3年(1738年)12月7日、8代将軍徳川吉宗に披露され、延享4年(1747年)5月3日、養父・信朋の遺領を継いだ。宝暦6年(1756年)2月28日、西の丸弓頭となり、同年12月18日、布衣の着用を許される。同11年(1761年)西の丸小姓組番頭を経て、本丸付となり、12月18日に従五位下越前守に叙任された。

明和2年(1765年)8月15日より書院番頭に転じ、安永4年(1775年)に職を辞した。

天明元年(1781年)12月11日、江戸において死去。享年68。法名:正義。葬地は三田魚籃寺とされている(「寛政譜」新訂13巻205頁)。養嗣子の信智は明和4年(1767年)5月26日に死去したため、家督は信智の子信義が継いだ。娘は久世広景に嫁いでおり、幕末の旗本筒井政憲外孫に当たる。

出典

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