内藤信庸
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳4年(1714年) |
死没 | 天明元年12月11日(1782年1月24日 ) |
別名 | 守之助 |
官位 | 縫殿、民部、従五位下越前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 |
旗本5000石 知行地:駿河富士郡及び駿東郡 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 |
父:内藤弌信、母:不明 養父:内藤信朋 |
兄弟 |
信輝、信盛、京極高長、女(相馬徳胤室)、 信庸、ほか |
妻 | 内藤信朋の養女(信朋の子信旨の娘) |
子 |
娘(久世広景室)、 娘(伊東祐政室、離別後内藤正範に再嫁)、他 養子:信智(信朋の子信邦の次男) |
内藤 信庸(ないとう のぶつね)は、江戸時代の旗本。越後村上藩内藤家の分家当主・内藤信朋の養嗣子。
生涯
[編集]正徳4年(1714年)、村上藩主内藤弌信の七男として生まれる。元文3年(1738年)12月7日、8代将軍徳川吉宗に披露され、延享4年(1747年)5月3日、養父・信朋の遺領を継いだ。宝暦6年(1756年)2月28日、西の丸弓頭となり、同年12月18日、布衣の着用を許される。同11年(1761年)西の丸小姓組番頭を経て、本丸付となり、12月18日に従五位下越前守に叙任された。
明和2年(1765年)8月15日より書院番頭に転じ、安永4年(1775年)に職を辞した。
天明元年(1781年)12月11日、江戸において死去。享年68。法名:正義。葬地は三田魚籃寺とされている(「寛政譜」新訂13巻205頁)。養嗣子の信智は明和4年(1767年)5月26日に死去したため、家督は信智の子信義が継いだ。娘は久世広景に嫁いでおり、幕末の旗本筒井政憲は外孫に当たる。
出典
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年