佐藤堅忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

佐藤 堅忠(さとう かたただ、天文17年(1548年)- 慶長17年12月23日1613年2月12日))は戦国時代から江戸時代に武将。通称、勘右衛門。従五位下、駿河守。父は佐藤信則。名は堅成、堅忠。法名宗雪。子に佐藤継成佐藤吉次。戒名、冬林宗雪居士(後年に元亨院殿と追贈)。伊深佐藤氏の祖[1]

生涯[編集]

同じ藤原秀郷の佐藤一族である加治田城主・佐藤忠能と共に行動する。堂洞合戦関・加治田合戦後、織田信長の要請を受けて佐藤忠能の養子となり、斎藤利治が城主になるとその同族として共に行動する。

利治が本能寺の変で主君・信長、織田信忠親子と共に討死した後、美濃斎藤氏斎藤利堯に仕える。加治田・兼山合戦に従軍して森氏に勝利するもしばらくの後、利堯が病没してしまい、またその際の後継者を決めておらず、程無くして敵対勢力の森氏によって領地が統合され、結果的に森氏の支配下となった。

その後、兼山村一柳に寓居。森忠政の推挙により、豊臣秀吉に仕官。天正13年(1585年)金切裂指物使番となり、文禄3年(1594年伏見城の普請奉行を務めた。秀吉の没後は、徳川家康に転仕している。

家康と共に会津征伐関ヶ原の戦いに従軍。慶長10年(1605年徳川秀忠の将軍宣下拝賀上洛に供奉し、慶長12年(1607年)には駿府城築城の普請奉行など歴任する。慶長17年(1612年)65歳で死去。

人物[編集]

  • 豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠などに歴仕した際に出世し、奉行職を務めた。
  • 普請技術に長けており、普請奉行を歴任する。
  • 美濃佐藤氏の一族として豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠の供廻りとなり、その都度付き従った。
  • 主要な合戦に参加している。

逸話[編集]

  • 加治田城主に仕えていた時は、湯浅新六の将の元で大島光政と共に従軍していた。
  • 加治田・兼山合戦の前哨戦において、湯浅新六・大島光政井戸宇右衛門とともに五十余騎で、毛利山城伏兵を配備。森勢に挟撃し森勢は大混乱、死傷者続出し大敗。激戦地は三つ池付近で傷を負った武士らがにげまどい「這坂」の地名がついた。
  • 大島光政とは良好な間柄であり、徳川家中では共に旗本寄合席として、末代まで親睦を深めた。

子孫[編集]

  • 子の継成より旗本として明治維新まで続いた。
  • 佐藤忠能の三女は佐藤駿河守に嫁ぎ生まれた吉次は日光東照宮の造営奉行となり、子孫は徳川旗本として続いた。

資料[編集]

  • 供養碑に次のような銘文があり、子孫に墓所の探索を行った。「始祖堅忠公卒後閲年既久矣後世百方索其墓而未有克獲也今茲弘化丁未冬十二月追贈院號権設碑于海禅寺以奠香火致報本之意焉子孫當益刻心索其故墓而勿忘 十二世孫信禮謹識」

美濃佐藤一族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『富加町史』「◯佐藤勘右衛門」

参考文献[編集]

  • 南北山城軍記
  • 堂洞軍記
  • 永禄美濃軍記
  • 富加町史
  • 兼山町史
  • 寛政重修諸家譜

外部リンク[編集]