秋田騒動

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秋田騒動(あきたそうどう)とは、1757年宝暦7年)に久保田藩(秋田藩・佐竹藩)で発生した騒動である。お家騒動にまで至らなかったと考える人は銀札事件という名が適切だと主張するが、お家騒動まで至ったと考える人は佐竹騒動という名前も使用する。秋田の歴史を書いた歴史書を読んでも、著者がどちらの考えかで記述が全く異なっている。宝暦事件とも言う。石井忠行は江戸時代に「丑年騒動」と言われていた事を記録している。

秋田騒動は悪女妲己のお百人気の為に、歌舞伎・小説・講談・映画・落語の題材として何度も扱われている。

経緯[編集]

銀札実施まで[編集]

慢性化してきた藩財政の窮乏に対処し、その打開策として久保田藩が幕府に対して銀札の発行を願い出たのは1754年(宝暦4年)6月であった。久保田藩商人の森元小兵衛が進言し、財用奉行の川又善左衛門が推進、4月に家老、勘定奉行、町奉行らが寄り合い、相談を進めたものであった。藩が幕府に提出した「御伺書付」によれば、「秋田藩は近年財政が欠乏し、加えて不作が続き領民も困窮している。そこで銀札発行により諸商売を盛んにして藩士や商人、農民を救いたい。仙台藩白河藩でも藩札を発行した例がある」というものであった。幕府は勘定頭一色周防を通して2つの反問を伝えた。「久保田藩は昔から銀が多く産出する藩だったのではないか」というものと「銀札発行によって他藩の妨げにならないか」というものであった。これに対し、久保田藩は2つめを重視し「銀札は久保田藩内の富裕町人・百姓を札元とする兌換券とするので問題は発生しない」と答え、7月27日に許可をもらった。同年10月11日、川又善左衛門は銀札発行を伝え聞いて動揺する藩士や庶民を納得させるために「上意之覚」を配布して藩が銀札発行に至った経緯を説明した。また、銀札の下絵や札元の富裕町人・商人の世話の差配をしている。札元が最も遅くまで決まらず、進言した商人の森元小兵衛も固辞し、やっと10月末に佐竹藩の豪商だった見上新右衛門や鉱山師の(松坂屋)伊多波武助ら34名に札元が決まった。

銀札実施後[編集]

1755年(宝暦5年)2月5日に銀札使いの諸規定を定め、銀札が実施された。規定は以下の通りである。「しばらくは銀札と正銀を取り混ぜて使用すること。金で取り扱いするときには、金1両につき、銀60匁を両替しその場合には半分銀札を使うこと。銀で取引するときには銀1匁につき、銀70文の相場で行うこと。正銀100匁は銀札101匁、銀札102匁は正銀100匁で兌換すること。他藩の商人や旅人は正銀を通用すること」などであった。幕府との公約通り他藩の迷惑にならない規定だったが、最初から打歩がつけられていた。

銀札が実施されると銀札の価値はたちまち下がっていった[1]。人々は正金銀を退蔵し、銀札を手に入れた場合はすぐに正銀に兌換しようと取引所に殺到した。わずか1ヶ月で兌換自由の規定は見直され、3月25日に兌換を一切認めず、他藩に正銀を支払う場合にも厳しい制限がついた。しかし、わずか1ヶ月で規定を変えた事が人々の銀札への不信を深める事となった。5月17日5ッ時を期して、藩は久保田城下の61軒を捜索した。退蔵している金銀や銭、米を一気に摘発しようとするものだった。どこからか計画が漏れたのか結果は期待外れの大失敗に終わった。流言が飛び交い人々は極度に動揺した[2]

6月に藩は規定をさらに変えた。領内の一切の売買は銀札に限るというのであった。藩外との交易でも藩内に出入りする際に引換所で正銀に変えることを強制した。また1755年(宝暦5年)は飢餓が進行するのが予想されたので、藩から生産される米をすべて買い上げる「御買米仕法」も実施された。藩は城下の蓄米をすべて調べ上げてそれを元に、米座から米を配給した。米の配給は渋滞し久保田や土崎湊は眼もあてられない無間地獄になっていた。しかし、1756年(宝暦6年)は相当の豊作が予想されたので、人々は御買米仕法の緩和を期待した。しかし、銀札を乱発したせいで米価は上がったままであった。

1756年(宝暦6年)11月、家老の真壁掃部助[3]、小田野又八郎らが御役追放蟄居となり、銀札奉行赤石藤左衛門は改易となった。理由は「御買米仕法」による米の買い上げ価格を上意に反して独断で決めたものである。銀札によってインフレーションが発生しており、米価を下げる事によって諸物価の高騰を防ぎたかったものである。12月久保田藩の全ての家臣が集まり会議をしたが結論が出ず、藩主に御伺いを立てる有様であった。

1757年(宝暦7年)2月美濃国石津郡多羅尾村の3人が幕府を通して訴えて来た。多羅尾村は茶を栽培して第一の生計にしている村である。銀札で茶の代金を得ていたが、宝暦5年に兌換できず、宝暦6年にも豊作なはずなのに、未納が続いた為である。3月13日に江戸御評定所で裁判と決まった。「銀札発行によって他藩の妨げにならない」と確約している久保田藩は慌てた。久保田藩のあつい饗応と即時兌換によって願いは取り下げられた。しかし、この事件の責任を取って白土奥右衛門や大縄幸左衛門らの銀札奉行が遠慮し退役せざるを得なかった。

このとき、平本茂助[4]が中心となって銀札仕法は4度目の改革になった。平本の改革は銀札派官僚の権限を押さえたものになった。自由に商人が産物を売り買いしたり、富豪が金銀を貯めるのをお構いなしとしたものであった。これは、今までの銀札方役人の誤りを指摘して、銀札政策を破棄するものであった。家老・梅津外記は銀札執行には積極的であった。対して家老・石塚孫太郎や岡本又太郎(石塚の弟)らは批判派であった。平本茂助は江戸に登った川又の後任で、石塚孫太郎は真壁の後任だから共に銀札執行に責任は無かった。しかも銀1匁に対して、銭2・3文まで落ちていた銀札の価値が、この改革で12文まで立ち直った。

藩内での対立[編集]

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3月26日、家老の石塚と岡本は角館佐竹義邦(図書)の久保田への出府を願い出て、佐竹義智(東山城)宅で会おうとした。これは5月に予定される藩主佐竹義明の国入りで、銀札執行派の勢力拡大を恐れたからと推測できる。佐竹義智や佐竹義邦は藩主佐竹義明の叔父であった。

4月6日以降、平本茂助も加えて会合が開かれた。彼らは私的な内談の結果を会所に持ち込み合法化して布告する「密室政治」を行った。これに対し、政治は会所で決まるものと考えていた梅津外記や、国元家老の山方助六郎、山方に軍学を指南していた野尻忠三郎が不満を溜めていた。14日藩主佐竹義明の正月以来の密室政治に疑惑を感じているという手紙が届く。佐竹図書らは手紙を改ざんし、梅津外記はそれ反発したため、両者は16日会所で正面衝突してしまう。この日騒ぎは収まったものの、17日に佐竹図書らは梅津外記を出勤差止にする。さらに、18日京都から川又が帰って来たが、直ぐに佐竹図書らに「遠慮」を申し渡されてしまう。山方助六郎は病気を理由に引きこもっていた。

5月18日久保田への帰国を目前にした藩主佐竹義明は、突如佐竹義邦(図書)、佐竹義智(東山城)、石塚孫太郎、岡本又太郎に「御差あり(中略)差控」を申し渡す。平本茂助は佐竹義智宅に引きこもって難を逃れた。御城御門は多数の足軽で物々しく固められ、ついに19日藩主佐竹義明は久保田へ到着した。藩主は佐竹図書らを「逆意之萌明白」として断罪しようとした。こうして旧銀札派は勢力を盛り返したように見えた。だが銀札の失敗はそれでは取り返しがつかない程になっていた。

22日太田蔵之介が藩主佐竹義明に直訴しようとして、大越甚右衛門らにはばまれた。24日 武頭共の総意を代表して羽石小七郎が「不安堵千万」と言う書を家老に提出した。大館の佐竹義村(大和)も天徳寺など各寺院の住職も登城したが、皆銀札の失敗を証言した[5]

26日側近に奸ありと、いきなり藩主は旧銀札派の側近や家老を一掃した。江戸で5代藩主佐竹義峯の側近として権威を振るい愛宕下御前(義峯の子女)奥家老を勤める那珂忠左衛門も野尻忠三郎の宅から「甚だ怪しき書き付け」が発見され、糺明を受けることとなった。東山城や佐竹義邦は「山方・野尻・那珂らが謀計を相企候」まちがいなしということで、野尻親子は草生津で断罪された。その他も切腹や永蟄居など、総勢40人が処分された。

6月末日銀札への最終処理を久保田藩はまとめあげた。それによると、7月8日で銀札の発行を禁止し、一匁の銀札を一文の金額で10年かけて兌換するというものであった。人々は不満を持ったが、これに従うしか無かった[6]

七日市村の豪農長崎七左衛門の『大事代記』によれば「札元ハ多ク潰ニ及申候、惣棟梁川又善左衛門様ハ切腹被仰付候」とある[7]

宝暦の銀札の失敗の後、約80年後の1840年(天保11年)に再び藩札が発行された。これは、銅山、銀山及びその付近だけで通用したとされるが、広く領内にも通用していた。銀札との記録もあるが実際には金札や銭札が発行され、この時は騒動無く兌換も適切に行われた。現在は稀少である。その後、幕末にも2度ほど秋田藩は藩札を発行している[8]

『秋田杉直物語』[編集]

馬場文耕の作品と言われ講談調に秋田騒動を描いた作品である[9]。『秋田杉直物語』では秋田騒動をお家騒動と捉えている。馬場文耕は『平良仮名森の雫』で幕府に処刑されたが、その直前に描いたのが『秋田杉直物語』ということになる。『平良仮名森の雫』の郡上藩は改易になり、秋田藩は改易にならなかった。表向きはお家騒動にまで至らず、公儀の力を借りなかったことが秋田藩に幸いしたのかも知れない[10]

江戸時代には講談の主な演目としてお家騒動がある。三田村鳶魚によればお家騒動を最初に読んだ者こそ馬場文耕である。彼は、お家騒動を描いた『平良仮名森の雫』『森岡貢物語』『秋田杉直物語』の作品を作ったが、『平良仮名森の雫』は一書としてまとめられたかどうかも明らかでなく、『森岡貢物語』は盛岡藩の使者と老中たちの悶着を描いたものであるが、短編でありお家騒動と呼べる程の奥行きはない。したがって、『秋田杉直物語』こそが最も古いお家騒動の講釈の種本であるという。さらに、馬場文耕の唯一の中編でもあるという[11]

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『秋田杉直物語』の記述は、まず佐竹藩の家督相続の経緯についての紹介から始まる。2代藩主佐竹義隆には3人の男子がいた。正室の子である佐竹義処が家督を継ぎ3代藩主となるが、次男の壱岐守佐竹義長に2万石、三男(実は長男)で側室の子の式部義興に1万石を与え、もし本家に嗣子がないときには、壱岐守家か式部家から入って家督相続をさせることにした。4代藩主の佐竹義格には子が無く、壱岐守家の佐竹義長の子である佐竹義峯が入って、5代藩主となった。ところが、義峯にも子が無かったため、壱岐守家の意向に反し、式部家の佐竹義堅を養子に迎えた。しかし、義堅は家督相続以前に死去したため、子の佐竹義真が跡を継いで6代藩主となった。佐竹義真は在位4年足らずで死去し、今度は壱岐守家から佐竹義長の長男である佐竹義明が7代藩主となった。

話は戻り、佐竹義峯は江戸で傘の代わりにもなる大きなフキの自慢をしたところ、他の藩主から信じてもらえなかった。そこで、藩主の名誉のために、那加忠左衛門(旧名 采女)は大きなアキタブキを取り寄せ、藩主の名誉を回復し義峯に取り入った。その後、那加忠左衛門は松平隠岐守の妻になっていた義峯の長女の付家老になる。従って普段那珂は江戸の愛宕下の上屋敷にいることになる。義峯の父、佐竹義道は那加に取り入り、那珂に「孫の求馬(後の佐竹義明)を本家の跡継ぎにしたい。しかし、本家には佐竹義堅と、その子佐竹義真がいる。とうてい求馬が出る幕はない。残念なことである」と話をした。これに対し那加は謀略を巡らし2人とも毒殺してしまい、義道の孫の義明を藩主にすることができた。その後、自身の栄達のため妖婦「お百」を義明の侍妾に勧め。義明は酒食に溺れて財政が逼迫、それを糊塗するために銀札事件への関与を深めた。騒動後、義明をも毒殺しようとしていた那加忠左衛門は秋田から江戸まで逃亡に成功する。しかし、義明と松平隠岐守との直接の手紙のやりとりによって、愛宕下の屋敷から誘い出され幽閉され、引き回しの上、秋田の八橋にある草生津刑場で処刑された。『秋田杉直物語』では、那加忠左衛門が全ての陰謀を企てた悪役であるという形になっている。

『秋田杉直物語』には多くの矛盾点があり批判を受けているが、真実が混じっているという人もいる。特に複数人の膳番が切腹や処刑されている事実がある[10]。また、最後に一括して載せている関係者の賞罰もほぼ一致している。実際、馬場文耕には秋田藩の情報が集められていた。彼に連座し処刑された貸本屋の藤兵衛の判決文には、佐竹秀丸(佐竹義敦)の家中に不埒者がいて、雑説を書き留め、住所不明の秋田の旅人長助から馬場文耕に情報を流し、著述させたとある[11]

『秋田杉直物語』(深秘録本)の序文を書いた三田村鳶魚によると、この騒動の原因は、5代藩主の佐竹義峯が次の養子を生家である壱岐守家からではなく、あえて式部家から迎えたことが、対立の発端であるとしている。「公平に両分家から送立したようであるが、此の時から藩中に両分家の一方に荷担する者を生じ、遂に党派の勢いをなした」とした。また「重臣戸村十太夫等は壱岐守家を援け、重臣山方八郎等は式部少輔家を引きて陵轢せるなり」と、重臣らの対立に発展したと解説している。しかし「後年藩命を以て戸村の男に助三郎の女を妻合わせて山方氏を再興せしめしなど、旁々宝暦の内訌は、朋党の争闘なるが如くに観ぜられる」と、両家の縁組みで対立の解消がはかられ、この騒動の本質が実は派閥党争であったことを指摘している。しかし、三田村鳶魚がどのような史料や根拠でこの解説を書いたのかは現在では不明である[12]

脚色される『秋田杉直物語』[編集]

秋田県公文書館には『秋田騒動聞書夢之噂』と題する一書がある。乾巻と坤巻より出来ていて坤巻本文末には「宝暦十年秋八月吉日」という奥書がある。この本でも首謀者は那加忠左衛門であるとしているが、那加、真壁、梅津、大越の先祖の事などがより詳しく記述され、さらに反銀札派の平本も活躍している様子が描かれ、銀札に対する落書きも記録されていて秋田で書かれた事がうかがわれる。坤巻では那加忠左衛門の事が詳しく記述しており、処刑当日も顔色が変わらなかったので人々が「大勇の人にあらずや」と評したなどと、単なる悪役ではなくスケールが大きな人物として描かれている[11]

『国産秋田蕗』は十万字に及ぶ長編で、『秋田杉直物語』を基礎に、さらに那加忠左衛門の悪事を詳細に記述したもので、秋田のことは『秋田騒動聞書夢之噂』の記述を元にしていると思われる。『秋田騒動実記(大全)』や『秋田杉直成記』と内容が同じで、複数の書名があるのは、この書がかなり流布していたからであるように思われる[11]

妲妃のお百と秋田騒動[編集]

『秋田杉直物語』には那加忠左衛門の妾である「お百」が登場する。お百は元々、京都の貧者の娘で、その美貌と鋭利な頭脳で何人もの男の妻や妾になっていた。彼女が中国史上の最大の悪女と噂される妲妃になぞらえ、「妲妃のお百」として日本最大の悪女であると扱われる根がここにある。お百は脚色され、桃川如燕(2代目)の講談『妲己のお百』や実録物『増補秋田蕗』『秋田奇聞妲己於百伝』、河竹黙阿弥狂言『善悪両面児手柏』、二世為永春水の『厚化粧万年島田』、清水米洲編集の『脇田奇聞 姐妃の高髷』といった作品に悪女として登場し、同時にこれらの作品では秋田騒動が語られている。明治時代に成立した『増補秋田蕗』では、お百が主人公となっており、佐竹藩の御用船によって滅ぼされた海坊主の怨念がお百にとりつき、彼女は数々の悪事をするという筋書きである。特に、殺した亡霊の魂が現れても平然として、灯りとして利用する場面は人気がある。

お百がこれほどまで、悪女として扱われるのは,海音寺潮五郎は育ちが育ちなので、厳格な武家女房にはなれまいと思われていたが、「昨日までの風俗に引き替え、武家の妻の行儀をたしなみ、まことに気高く、いみじきこと言うばかりなし」であるからとしている[13]。「お百」が実は悪い女でなかったという設定の小説を、海音寺潮五郎は『哀婉一代女』で描いている。

『秋田治亂記(實錄)』[編集]

『秋田杉直物語』に描かれた秋田騒動だったが、それに対抗して秋田で作られたと思われるのが『秋田治亂記(實錄)』である。『秋田治乱記』と『秋田治乱記実録』の記述はほぼ同じで(やや実録の方が詳細)、いずれも作者や作成年は不明である。

『秋田治乱記』では『秋田杉直物語』の佐竹義堅、佐竹義真暗殺の件は一言も語られず、佐竹義明の代から始まっている。秋田騒動の原因は当時、古い家系の中で野尻忠三郎が才能があっても冷遇されていることへの不満が元にあったことを示している。野尻は謀略によって、多くの家を滅ぼそうとしたもので、その計画に江戸の那加忠左衛門や家老層まで乗った経緯が描かれている。複数人の膳番が切腹や処刑されている件は、藩主の佐竹義明を暗殺する計画もあったとしている。佐竹義明が秋田に到着後に佐竹図書や佐竹山城の取り調べが行われる場合には、各地から出火させ騒乱を起こし佐竹義明が出馬する際に、寄り添う形で佐竹義明を暗殺し跡に図書や山城の家の提灯をばらまく計画であった。

石井忠行は『伊豆園茶話』で「秋田治亂記といふは、共温公(佐竹義明)の御うえの御事より書きそめて、詞のかざりもなく、誠しげに見ゆ、まづは日記のごとし」(十七の巻)と評している。実際に行われた処罰では野尻忠三郎は草生津刑場で断罪という、那加忠左衛門に次ぐ厳しいものであった。

『秋田杉直物語』では出だしに佐竹氏の祖先が新羅三郎と誤り無く記述されているのに、『秋田治亂記(實錄)』の出だしは、それが八幡太郎と誤りが増えている。しかも、秋田藩内で修正された雰囲気もない。この部分は秋田藩で盛んに信仰されていた「八幡神社」と何らかの関わりがあると考える人もいる[14]

秋田騒動を扱った作品[編集]

映画[編集]

  • 1914年、姐妃(あねご)のお百、尾上松之助、日活
  • 1959年、南部騒動 姐妃のお百、小畠絹子、新東宝
  • 1987年傑作時代劇第19話 怪談 実録姐妃のお百、テレビ朝日系列
    • 明らかに「妲妃のお百」を元にしている。
  • 1940年、佐竹競艶録、大友柳太郎、新興キネマ

講談・書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大失敗の原因には贋札の横行が理由の一つとしてあげられる。古記録には半分が贋札とするものさえあった。宝暦4年の10月には早くもニセ銀札が市中に出回った。犯人として医師の次藤元伯が共謀の2人とともに逮捕されている。しかし、偽造犯はこの一味だけではなかった。銀札の発行枚数は宝暦7年6月8日までに82229貫余、そこから7月10日までに13950貫目という膨大な額だった。(『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.50,128)
  2. ^ 新屋や土崎港での捜索では銀220貫目、金150両と米を押収している。(『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.49)
  3. ^ 真壁は25年後の天明元年に佐竹義敦の代に執政加談として再雇用されている。
  4. ^ 平本茂助は能代奉行であったが、「御買米仕法」に強く抗議している。また『秋田杉直物語』では院内と誤っているが、自分の支配地だけは銀札を使いを受け付けなかったとある。
  5. ^ 四家のうち南家の佐竹淡路は幼少のため登城しなかった。
  6. ^ 銀札は70分の1に切り下げられたことになる。しかも、約束では10年かけて兌換するとあったが、その兌換も1ヶ月で終了した。(『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.50)
  7. ^ 『佐竹物語』、長岐喜代次、秋田:武内印刷出版部、p.230
  8. ^ 『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.51-58
  9. ^ 『秋田杉直物語』は著名がないが、馬場の『頃日全書』(『未刊随筆百種』収録)の序に「往年、厳秘、要秘の両禄密秘より、武野俗談、江戸著聞集、秋田すぎ等の珍談を数編撰みて、今世に専ら流布す」とあることによる。このことは、三田村鳶魚が『列侯深秘録』(国書刊行会)で指摘している。
  10. ^ a b 土井輝雄『佐竹騒動その背景 -銀札事件覚書』、秋田魁新報社1996年
  11. ^ a b c d 『実録研究 -筋を通す文学-』、高橋圭一、精文堂
  12. ^ 『御家騒動の研究』、吉永昭、清文堂、2008年、p.725-726
  13. ^ 海音寺潮五郎『列藩騒動録(上)』、p.399(文庫版)
  14. ^ 『<歴史>を創った秋田藩』、志立正知、2009年、ISBN-10: 4305703955

参考文献[編集]

  • 秋田県史 第2巻上 P.596-p.631