桃川如燕

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桃川 如燕(ももかわ じょえん)は、講釈師名跡。3代目が1957年5代目神田伯山を襲名して以降、空き名跡になっている。

桃川派の祖であるが、現在桃川の号を名乗る講談師はおらず、演芸界では2代目如燕の親族である紙切りの桃川忠がいる。

初代[編集]

本名:杉浦 要助、1832年天保3年)6月 - 1898年明治31年)2月28日

江戸の根津宮永町の酒商の三男、幼少から芸事が好きで、初代伊東燕国に入門して国栄から17歳で夜席で真打昇進、師没後遺言で師名の2代目燕国を襲名し正式に昼席で真打披露。この頃は「百猫伝」を得意とし「猫燕国」の異名を持った。さらに桃川燕玉桃川燕林を経て1847年に如燕[1]と改名。この頃は「大入道」の異名を持った。

中央新聞」に多く速記を残し明治期の2代目松林伯圓と並ぶ大看板。

墓所は台東区観音寺。

孫が桃川実

2代目[編集]

本名:斎藤 嘉吉、1866年9月 - 1929年9月30日

落語家一家(父、兄、弟がいずれも麗々亭柳橋。それぞれ3代目4代目5代目)の二男(真ん中の子)として生まれる。当人も13歳で落語家となり昔々亭桃太郎を名乗ったが、兄と弟ばかり褒められて自分はけなされるのに嫌気がさし、18歳で講談に転じ、3代目一龍斎貞山の門下で、一龍斎貞宗1885年に師が初代錦城斎一山を襲名に伴い一龍斎一仙となり、貞山没後に独立し千代田錦鏡と改名、ほどなく父の勧めで初代如燕の門下で、桃川若燕を経て1898年に2代目如燕となり、1905年には講談組合の分裂騒動で正義派と同志派に分かれた際は正義派の代表になり、1925年に再び講談組合が再集結された時は副代表になり1927年には講談組合頭取になった。

千代田錦鏡時代は「義士伝」が売りで老練になってからは「日蓮記」「暁星五郎」「越後騒動」などが得意であった。余芸で踊り、三味線もあった。あだ名は千代田錦鏡時代に寄席の看板や木戸口に櫛形模様の高張提灯を掲げて評判になったために「櫛形如燕」と呼ばれた。

3代目[編集]

三代目如燕(1955年)

後の5代目神田伯山

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  1. ^ 酒と女好きだったため、酒を呑む「口」に女で「如」という字に師匠の名「燕」を用いた。