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佐保来栖山砦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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佐保来栖山砦
大阪府
佐保来栖山砦の案内看板
佐保来栖山砦の案内看板
別名 来栖山砦、来栖山城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 15世紀後半-16世紀初頭
主な改修者 不明
主な城主 不明
廃城年 16世紀中頃
遺構 建物跡、曲輪石垣、竪堀、武者隠しなど
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度51分53.073秒 東経135度32分32.211秒 / 北緯34.86474250度 東経135.54228083度 / 34.86474250; 135.54228083
地図
佐保 来栖山砦の位置(大阪府内)
佐保 来栖山砦
佐保
来栖山砦
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佐保来栖山砦(さほくるすやまとりで)は、大阪府茨木市大字佐保にあった山城史料に記載がなく、平成になり発掘調査で存在が確認できた城郭である。

概要

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来栖山

この城跡は、史料に全く記載がなく、誰が城主であったのか沿革などは不明の城郭である。以前より不自然な平坦面が観察されていたことから、城郭の存在が指摘されていた。国際文化公園都市造成に伴い、全斜面と盛土部分を含めた、尾根の全面的な発掘調査が行われた。城郭は国見峠を経て、清坂街道と接続している。当地は丹波国摂津国大坂)を結ぶ重要な位置に存在していた。「福井城と関連があったのではないか」と近隣にあった福井城との関連を指摘されている[1]

城郭

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佐保来栖山砦と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

城郭は北東から南西へ延びる尾根の最先端部に位置する。尾根の最長部を中心に曲輪は3つあり、これを取り囲むように小規模な曲輪が配され、それらを繋ぐ通路があった。斜面には、堀切と石垣が検出された。石垣は砦斜面を全周するものではなく、曲輪の平坦面の高さまで積み上げたものではない。曲輪留め程度の石垣であったと思われるが、「心理的な防御の機能も果たしていたと思われます」と曲輪留め以外の役割も果たしていたと解説されている[2]。主要3曲輪の一つに礎石建物とそれを囲む土塁が出土した。建物の礎石は火熱をうけ、火災を被ったことが確認された。また土壁が大量出土し、礎石は建物に伴うものと考えられている。中央の曲輪が一段高く、両側にある曲輪が一段低くなっている。建物があった曲輪は一段低い部分にあたる。発掘調査により、礎石建物があった曲輪が最初にできた曲輪で単郭構造の砦から、2つの曲輪が並列して改築された変遷をもつ。最長部の曲輪と礎石建物があった曲輪からの出土物が多く、住居を伴う建物が両曲輪であったと考えられている。

堀切跡
堀切上にある曲輪跡

出土物

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発掘調査から、数多い遺物が検出された。

土師器小、土器皿、青磁碗、染付皿、染付碗、瀬戸美濃皿、瀬戸美濃碗、瀬戸美濃水滴備前徳利、備前擂鉢、備前丹波、丹波擂鉢、瓦器仏花瓶、瓦器火鉢、瓦器香炉、土師器鍋、石臼、鉄、銭貨、刀子

なお、は出土しなかった。またこれら遺物から特定の人物を推定することはできなかった。

曲輪跡から南西(高槻市)方向の眺望

城跡へのアクセス

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脚注

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  1. ^ 東京地図出版編集部 編『城巡礼 盛者必衰 大阪48カ所めぐり』東京地図出版、2008年5月、49頁。 
  2. ^ 栗栖山砦跡の調査” (PDF). 大阪府文化財センター (1999年1月23日). 2019年5月16日閲覧。

参考文献

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  • 高田徹編著『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、186-187頁。

関連項目

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外部リンク

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