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伊東栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊東栄之助から転送)

伊東 榮(いとう さかえ)は、日本の化粧品メーカー伊東胡蝶園の創業家の親子二代の名跡である。

  1. 初代 伊東榮#初代
  2. 二代 伊東榮#二代目

初代

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伊東 榮
Sakae Ito
生誕 伊東正保
1846年12月1日 グレゴリオ暦
(弘化3年11月15日 旧暦
武蔵国豊島郡江戸
(現在の東京都千代田区中央区
死没 1911年2月23日 (満64歳没)
別名 伊東栄之助
出身校 横浜仏語伝習所
職業 官吏実業家
子供 二代目 伊東栄
補足

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初代伊東 榮(いとう さかえ、1846年12月1日 - 1911年2月23日)は、日本の官吏実業家である。「御園白粉」で知られる化粧品メーカー伊東胡蝶園(第二次世界大戦後のパピリオの前身)を興したことで知られる。

人物・来歴

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1846年12月1日弘化3年11月15日)、江戸 (現在の東京都千代田区中央区の範囲)に、ドイツ医師博物学者フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに学んだ「近代医学の父」と呼ばれる蘭方医伊東玄朴の四男・正保(まさやす)として生まれる[1]横浜仏語伝習所フランス語等を学んだ。やがて栄之助(えいのすけ)、(さかえ)と名乗る[1]

1869年(旧暦 明治2年)、22歳のころ、民部省管轄(のち工部省海軍省管轄)の横須賀製鉄所に入所、1873年(明治6年)、26歳のころにヨーロッパに留学した[1]。同年、長男・謙吉(のちの二代目伊東栄)が生まれる[1]

1889年(明治22年)、42歳のころに官吏を辞し、軍需品をあつかう商人に転身した[1]

1904年(明治37年)、岐阜県令長谷部恕連の次男であり、フランス・パリから帰朝した化学者で、無鉛白粉の製造開発に成功した長谷部仲彦に協力して、東京市芝区(現在の東京都港区芝)で胡蝶園を創立した[1]。1909年(明治42年)、胡蝶園を「伊東胡蝶園」に商号変更した。

1911年(明治44年)2月23日脊髄炎のため死去した[1][2]。満64歳没。

二代目

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伊東 榮
Sakae Ito
生誕 伊東謙吉
1873年8月
不詳
死没 1929年7月28日 (満56歳没)
出身校 慶應義塾 卒業
東京高等商業学校 (現一橋大学 卒業
職業 実業家
補足

  • 1904年 胡蝶園 入社
  • 1911年 伊東胡蝶園 社主
  • 1926年 玄文社 社主
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二代目伊東 榮(いとう さかえ、1873年8月 - 1929年7月28日)は、日本の実業家である。「御園白粉」で知られる伊東胡蝶園を父とともに経営し、やがて二代目を名乗り、出版社「玄文社」を起こして出版事業も行ったことで知られる。

人物・来歴

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1873年(明治6年)8月、当時ヨーロッパ留学中の官吏・伊東栄の長男・謙吉として生まれる[1]。父が商人に転身したのち、慶應義塾東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した[1]

1904年(明治37年)、30歳のころ、父が同年に57歳で起こした化粧品メーカー「胡蝶園」で、父と協力して「御園白粉」等の製造に従事した[1]。1909年(明治42年)、胡蝶園を「伊東胡蝶園」に商号変更した。当時はのちに「ミツワ石鹸」で知られる丸見屋が総代理店として販売していた。

1911年(明治44年)2月23日、父・伊東栄が満64歳で没し、38歳で「伊東胡蝶園」を継ぎ、「二代目伊東栄」を襲名した[1]。5年後の1916年(大正5年)、出版社「玄文社」を設立、主幹に結城無二三の長男・結城禮一郎を採用、『新演芸』(主筆岡村柿紅)、『新家庭』、『花形』、『詩聖』といった雑誌を発行し、多数の書籍を出版し、玄文社は1926年(大正15年)ごろ廃業した。

1925年(大正14年)、丸見屋との総代理店契約を解消し、伊東胡蝶園が販売も行うこととした。

1929年(昭和4年)7月28日、死去した[1]。満56歳没。

関連事項

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l コトバンクサイト内の記事「伊東栄」の記述を参照。
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)4頁