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京都伏見介護殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京都伏見介護殺人事件
場所 日本の旗 日本京都府京都市伏見区
標的 女性1人
日付 2006年平成18年)2月1日
攻撃側人数 1人
死亡者 1人
犯人 被害者の息子
動機 介護による困窮
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京都伏見介護殺人事件(きょうとふしみかいごさつじんじけん)とは、2006年平成18年)2月1日京都府京都市伏見区桂川の河川敷で、当時54歳の男Aが生活苦から親子心中を図って認知症患者の86歳の母親を殺害した介護殺人事件。

経緯

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Aは両親と3人暮らしをしていたが、1995年(平成7年)に父親が死亡し、そのころから母親に認知症の症状が出始めた[1]

Aは、母親と2人暮らしを始め、介護をしながら工場で働いていた[1][2]2005年(平成17年)4月頃から母親の症状が悪化して昼夜逆転生活となり、ほとんど徹夜で仕事に向かったり、徘徊して警察に保護された母親を迎えに行ったりすることもしばしばあった[1][2]デイケアを利用したが介護の負担は軽減せず、7月に休職、9月に会社を退職した[1][2]。Aは介護を両立できる仕事を探したが見つからず、生活保護の相談に福祉事務所に3回訪ねるも、失業給付を理由に生活保護の申請が認められなかった[2]。仕事が見つからないまま12月に失業給付が打ち切られ、カードローンの借り出しも限度額に達し、翌月の家賃を払える見込みがなくなった2006年(平成18年)1月31日にアパートを引き払い、心中を決意した[1]

Aは最後の親孝行にとその日の夜から車椅子の母親を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、家に帰りたがった母親に「もう生きられへんのやで。ここで終わりやで。」と言うと、母親は「そうか、あかんか。一緒やで。」と答えた[1][3]。Aが「すまんな、すまんな。」と謝ると、母親は「こっち来い、わしの子や。わしがやったる。」と言った[1][3]。この言葉を聞いて、Aは殺害を決意した[1]。Aは母親の首を絞めて殺害し、自分も包丁で首を切って自殺を図ったが一命を取り留めた[4]2月2日、Aは殺人の容疑で逮捕され、「介護に疲れ、母親を殺して自分も死のうと思ったが、死にきれなかった。」と供述した[4]

4月19日に初公判が京都地方裁判所であり、Aは公訴事実を認め、検察側はAが追いつめられていく過程を詳述し、殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい。」という供述を紹介した[1]6月21日の公判では、被告人質問で心中を図るまでの経緯を涙を浮かべながら語り、「母の後を追って死のうとしたができなかった。今は母のためにも86歳をこえるまで生きたい。」と述べた[5][6][注釈 1]7月5日の論告求刑公判において、検察側は「同情の余地はあるが、尊い命を奪うことは許されない。」として懲役3年を求刑し、弁護側は「法的に批判できても道義的に批判できない、やむにやまれぬ究極の選択だった。」として執行猶予付きの判決を求めた[7]。Aは、最終陳述で「私の手は母を殺めるための手であったのか。みじめで悲しすぎる。」「生きるのは本当につらいが、今は母の年までは生きて冥福を祈り続けたい。」などと述べた[8]

7月21日、京都地方裁判所での判決公判において、裁判官は「母親の同意を得たとは言え、尊い命を奪った刑事責任は軽視できない。」とした上で、それまでの経緯や献身的に介護をしていたことなどを酌量し、「母親は、恨みなどを抱かず、厳罰も望んでいないと推察される。自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当」と述べ、Aに懲役2年6ヶ月、執行猶予3年を言い渡した[9][10]。また、「自分を殺めることはしないようにして、お母さんのためにも幸せに生きてください。」と被告人を諭した[10][11]。また、同時に裁判長はこの事件が福祉行政の力で防げた可能性を指摘し、次のような付言[注釈 2]を行った。

本件で裁かれているのは被告人だけでなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを行政の関係者は考え直す余地がある。 — 東尾龍一裁判長、付言

付言の中では異例ともいえる行政への批判が込められており、論告では「哀切極まり同情の余地がある」と述べられており、殺人事件の裁判としては異例づくめの判決であった[12]

Aは裁判の後、滋賀県に転居し1人暮らしを始め、木材加工会社で働いていたが、2013年(平成25年)に会社をクビになったと親族に伝えたきり音信不通となった[3][13]。親族が警察に行方不明者届を出したが、2014年(平成26年)8月1日に遺体で見つかった[13][注釈 3] [14]

関連作品

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舞台「生きる」
作劇はブッチー武者、脚本・演出はコント山口君と竹田君の山口弘和[15][16]
兄弟子の母が認知症になったことをきっかけに本事件を知ったブッチー武者が、本事件を風化させてはいけないと決意して作劇し、劇団ZANGEを旗揚げした[15][16]2014年(平成26年)9月2日から9月7日にかけて初公演が行われた[15]
毎日新聞大阪社会部取材班著『介護殺人―追いつめられた家族の告白―』(新潮社)
毎日新聞のシリーズ企画「介護家族」が2016年(平成28年)に書籍化され、本事件についても収載されている[17]

脚注

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注釈

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  1. ^ 地方裁判所には、刑の軽減を求める近所の人ら126人分の嘆願書が出された[5]
  2. ^ 判決理由の終盤で裁判官から投げかけられる世間への提言
  3. ^ その日の朝に男性が琵琶湖大橋から湖に飛び降りるのを目撃した情報があり、Aが身に着けていたカバンに、へその緒と「一緒に焼いてください」というメモ書きが入っていたことから自殺とみられる[3][13]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 「京都・伏見区の母子無理心中 地裁が泣いた 介護疲れ54歳に「情状冒陳」 初公判」『毎日新聞』2006年4月20日、29面。
  2. ^ a b c d 「介護の「悲劇」防ぐには 認知症の母殺害、きょう京都で判決 人頼らぬ男性被告」『朝日新聞』2006年7月21日、25面。
  3. ^ a b c d そして男性は湖に身を投げた~介護殺人 悲劇の果てに~ - NHK クローズアップ現代+ - ウェイバックマシン(2019年12月20日アーカイブ分)
  4. ^ a b 「「介護に疲れた」 母殺し長男逮捕 容疑で伏見署」『読売新聞』2006年2月3日、31面。
  5. ^ a b 「認知症の母、承諾殺人 迷惑かけずに生きようと思った 地裁公判」『朝日新聞』2006年6月22日、34面。
  6. ^ 「介護殺人公判 母に「一緒に行こうか」と聞くと笑った 被告、涙の陳述」『読売新聞』2006年6月22日、31面。
  7. ^ 「母を承諾殺人、懲役3年求刑 弁護側は執行猶予要求」『朝日新聞』2006年7月5日、15面。
  8. ^ 「承諾殺人被告「母の年まで生きたい」 介護負担、支援届かず」『朝日新聞』2006年7月21日、15面。
  9. ^ 「認知症の母、長男が承諾殺人 献身介護認め温情判決 執行猶予3年」『読売新聞』2006年7月21日、15面。
  10. ^ a b 「京都・伏見区の母子無理心中 「裁かれるべきは行政」殺害の息子、執行猶予 地裁判決」『毎日新聞』2006年7月21日、11面。
  11. ^ 「「お母さんのため幸せに生きて」 地裁、承諾殺人の長男に説諭」『読売新聞』2006年7月22日、31面。
  12. ^ 長嶺超輝『裁判官の爆笑お言葉集』幻冬舎新書、2007年3月30日、126-127頁。ISBN 9784344980303 
  13. ^ a b c 「介護家族 認知症の母殺害、再起誓ったが 8年の孤独、抱え自殺」『毎日新聞』2016年1月5日、29面。
  14. ^ 「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末 デイリー新潮
  15. ^ a b c 「認知症介護 芸人が問う 母殺害事件を脚色、東京で上演 「ひょうきん族」神様役、ブッチーさん」『毎日新聞』2014年9月1日、28面。
  16. ^ a b 「「認知症介護殺人」を舞台化 ブッチー武者 事件を風化させたくない 介護問題を問い続ける」『エコノミスト』第95巻第26号、毎日新聞出版、2017年7月4日、29頁、NAID 40021227239 
  17. ^ 「出版:「介護家族」が書籍に 書店やネットで販売 毎日新聞企画」『毎日新聞』2016年11月24日、24面。

関連項目

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