九戸政実の乱

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九戸政実の乱
戦争奥州仕置
年月日天正19年(1591年)3月13日から9月4日
場所陸奥国糠部郡九戸城周辺
結果:奥州仕置軍の勝利 九戸政実の処刑
交戦勢力
奥州仕置軍 九戸軍
指導者・指揮官
浅野長政
蒲生氏郷
堀尾吉晴
井伊直政
九戸政実
九戸実親
櫛引清長
戦力
60,000(諸説あり) 5,000
損害
不明 九戸城落城
豊臣秀吉の戦闘

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。

開戦までの経緯

九戸勢の反乱

九戸政実は南部家の後継者争いで、南部信直が自分達九戸一族を退けて半ば強引に当主になったことに大いに不満を持っており、信直との関係は亀裂状態であった。信直が小田原征伐で留守中の天正18年6月には、三戸南部側である南盛義を攻撃した。盛義は討ち死にし、以後南部家中は緊張状態が続いた。天正19年2月末から3月にかけて政実が大規模な兵を動かして挙兵しており、2月28日に三戸城にいた浅野長政の代官が色部長実に送った手紙には、逆意を持った侍衆がおり糠部地方が混乱状態にあること、当地の衆が「京儀」を毛嫌いし、豊臣になびく信直に反感を抱いていること、仕置軍の加勢が無ければ信直は厳しい状態であることなどを伝えている。また同日に信直から長実に送られた手紙にも、逆意を持った者達に手を焼いているが仕置軍が来るのは必定であるという旨を書いている。3月17日付の浅野の代官から長実への手紙には九戸、櫛引が逆心し油断ならないこと、一揆勢は仕置軍が下向するという噂を聞いて活動を控えているということなどが書かれている。その後信直は息子の南部利直と重鎮の北信愛を中央に派遣、6月9日には秀吉に謁見して情勢を報告した。

奥州再仕置軍の進撃

この頃は九戸以外にも葛西大崎一揆和賀・稗貫一揆仙北一揆など大規模な一揆が起きており、豊臣秀吉はそれらの鎮圧のため6月20日に号令をかけて仕置軍を編成した。

白河口には豊臣秀次徳川家康が、仙北口には上杉景勝大谷吉継が、津軽方面には前田利家前田利長が、相馬口には石田三成佐竹義重宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗最上義光小野寺義道秋田実季津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城を落とし、9月2日には九戸城を包囲した。

九戸城の戦い

城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。政実はこれら仕置軍の包囲攻撃に少数の兵で善戦したものの、勝てないと悟り抗戦を諦めると、9月4日に出家姿で仕置軍に降伏した。浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行ったあと、政実はじめ主だった首謀者は集められ栗原郡三迫で処刑された。降伏した将兵は助命を約束されていたが、浅野ら豊臣軍はこれを反故にし、皆殺しにした。九戸城(信直は福岡城と改称)の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている[1]

結果

この乱以後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成する。また南部氏はこれをきっかけに蒲生氏との関係を強めており、蒲生氏郷の養子である源秀院(お武の方)が、南部利直に輿入れしている。戦国変わり兜の一つとして有名な「燕尾形兜」は、この時の引き出物として南部氏にもたらされたものである。また氏郷と浅野長政は信直に本拠地を南方に移すことを勧め、これが盛岡城築城のきっかけとなった。

脚注

  1. ^ 二戸市教育委員会 九戸城跡

参考文献

岩手県編纂 『岩手県史』第3巻中世篇2 杜陵印刷、1961年