上見附駅
上見附駅 | |
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上見附駅跡。奥が長岡・栃尾方向でここは駅の終端部。車のある家およびその左隣の家辺りに駅舎があった。(2010年8月20日撮影) | |
かみみつけ Kamimitsuke | |
◄名木野 (1.0 km) (2.2 km) 明晶► | |
所在地 | 新潟県見附市 |
所属事業者 | 越後交通 |
所属路線 | 越後交通栃尾線 |
キロ程 | 15.0 km(悠久山起点) |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 1面4線 |
開業年月日 | 1915年(大正4年)2月14日 |
廃止年月日 | 1975年(昭和50年)4月1日 |
上見附駅(かみみつけえき)は、かつて新潟県見附市に存在した、越後交通栃尾線の駅である。1975年(昭和50年)4月1日、栃尾線の全線廃止により廃駅となった。駅舎は構内跡地とともに長らく越後交通見附営業所社屋およびバスターミナルとして利用されたが、建物の老朽化と営業所の機能縮小により2003年(平成15年)に解体された。駅跡地は越後交通が分譲する住宅地となっている(2023年現在)。
歴史
[編集]- 1915年(大正4年)2月14日 - 浦瀬 - 栃尾が栃尾鉄道として開通したことに伴い開業。当時の初代駅舎は現・見附市双葉町地内に存在した(後述)[1][2]。
- 1919年(大正8年)12月25日[注釈 1] - 駅舎を市街地寄りに移転。移転直後は見附町内を流れる刈谷田川・見渡橋のたもと、南岸(左岸)側にあったが[注釈 2][2]、ほぼ同時期に開始された河川改修工事の完成後は同川の北岸(右岸)側となる。詳細は後述(スイッチバックと刈谷田川橋梁)。
- 1956年(昭和31年)11月20日 - 社名変更により栃尾電鉄上見附駅となる。
- 1960年(昭和35年)10月1日 - 栃尾電鉄の3社合併により越後交通上見附駅となる。
- 1965年(昭和40年) - 道路建設に伴い、駅が南側へ約40m移動[4]。駅舎も移転し、三代目となる。
- 1973年(昭和48年) - 当駅から栃尾駅の区間が廃止。これに伴いスイッチバックが解消された。
- 1975年(昭和50年)4月1日 - 全線廃止に伴い廃止。
現状
[編集]旧駅舎が取り壊されたのち、越後交通見附バスセンターが設置され、案内所業務のみ継続。1998年、バスセンターは西側に移転し(従って現在のバスターミナルは駅跡地ではない)、旧駅跡は売却され住宅地となっている。旧駅の位置にある時代から車庫機能はなく、待機所機能のみ残っているが、停留所としての名前は「上見附車庫前」のままとなっている。
隣の駅
[編集]スイッチバックと刈谷田川橋梁
[編集]初代駅舎
[編集]当駅は当初、耳取[注釈 3] - 明晶中間地点、旧北谷村役場の位置する名木野集落付近に通常の中間駅として計画された[注釈 4]。しかし、人口の多い見附町民からの強い要望と、増収を期待する鉄道側の思惑が合致し、開業前年の臨時株主総会にて見附町寄りに設置するよう修正された。また、地形の制約により頭端式のスイッチバック駅として開業した。
のちに、初代駅跡地(見附市双葉町、北緯37度31分4.9秒 東経138度55分21秒 / 北緯37.518028度 東経138.92250度)には案内板が設置された。河川改修された刈谷田川が近傍を流れ、周囲の地形は当時と大きく変化している。
「大正三年八月廿三日の臨時株主総会に於て、新保より長岡市迄線路延長が決議されて新計画を建てるに至った。当時の書類により鉄道線路の概要を摘記すれば左の如し。
(中略) 而して線路は下長岡停車場より(中略)北谷村大字名木野に至り上見附駅に達す。同駅はさきに名木野本村の入口の方に設置する計画なりしも、見附町方面多数旅客の利便と会社営業上の利害とに省み、同方面に接近せる場所を選定せり。而して同駅は刈谷田川の流域に障害せられ普通の設計に拠り難きを以て引込線(スヰッチバック)とし且つ列車の保安上の設備を全からしめん為め連動装置を施すことと為せり。」 |
—小川金治郎 著 『小林友太郎翁伝』p.86 |
「本鉄道発起目論見書には起点古志郡富曽亀村大字新保より終点栃尾町に至る迄延長 11哩20鎖に対し、資本金30万円、則 1哩の建設費 2万6194円67銭とし、創立に着手せしが、軽便鉄道としては可成部落に接近し、中間駅に於て貨客を吸収する方有利なるべしと思料し、其方針に依り線路を選定し実測を遂げ、且上見附駅停車場を見付町(原文ママ)の人家に接近せしむるため引込線の設計を用ゆることとなせし結果、距離に於て 1哩17鎖50節を増加し、12哩37鎖50節となり(延長線[注釈 5]の長 1哩10鎖50節にして全線 13哩6分となる)、且牛ケ嶺隧道(長527 フィート、工費約3万円、軌間 3フィート6インチ[注釈 6]の設計)開削の必要を生じ、加ふるに重要なる橋梁拱渠は将来の利益を慮りて永久的工事を施し、上見附停車場には其筋の内命に依り列車運転上の保安設備を完全にせんため第一種連動装置を施したる等、創立当初の計画に比し線路の延長も増加し、設計の数量実質共に増加せしため、勢ひ工費の不足を免れず、当事者の頗る苦慮せし処なり。」 |
—栃尾鉄道株式会社 著 『栃尾鉄道案内』追補 p.5 |
駅移転と刈谷田川改修工事
[編集]さらに当駅を見附町内に近づけるべく、1919年(大正8年)に駅移転工事が完成。この結果、路線長は往復で 1マイル(約 1.6 km)延長された。分岐点より北側の延長区間については単線並列が採用された。また、当駅移転により駅間距離が伸びる長岡方面には名木野駅が新設されることとなったが、実現したのは戦後、1953年(昭和28年)のことである。なお、名木野駅の開業にあたっては比較的近い明晶駅の廃止も検討されたが、結果として存続となっている[5]。
同年、頻繁に氾濫が発生していた刈谷田川の河川改修が開始された[6]。見附市街に大きく食い込んでいた河川の流路が直線状に改められることとなり、新河道を渡るための刈谷田川橋梁が建設された。
旧河道については完全に埋め立てられぬまま、湿地帯・沼地として長らく残され、昭和30年代に入り見附市(1954年町から昇格)の主導により再開発計画が始動した[7]。それに併せて当駅よりさらに北、本町方面への延伸も計画されたが住民からの反発を受け、さらに越後交通への経営統合もあいまって計画は消滅した[8]。
廃線跡
[編集]橋梁は廃線後も長らくそのままとされていたが、平成に入ってから歩行者専用の「ふれあい橋」として架け替えられた。7.13水害の後には栃尾線と同水害について書かれた看板が名木野方の袂に設置されていたが、2014年までに撤去されている。
初代駅舎付近の路盤跡については、自転車道・刈谷田サイクリングロードとして整備されている。
注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ 『栃尾鉄道案内』p.35 見附町略図(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c 『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』, p. 55.
- ^ 五万分一地形圖 -三條 明治44年測量・昭和6年要部修正測量及同修正縮図(参謀本部).
- ^ 『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』, p. 56.
- ^ 「栃尾鉄道の開通」『見附市史 下巻 2』1983年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『昔と今、今と未来をつなぐ刈谷田川』.
- ^ 『見附市史 下巻 2』「第1節 市政の施行」1983年 p.405(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『見附市史 下巻 2』「第2節 市行政の展開と市政の拡充」1983年 p.413(国立国会図書館デジタルコレクション)
出典
[編集]- 小川金治郎『小林友太郎翁伝』小林翁銅像維持会、越佐新報社、1937年10月20日 。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 多川昌敏 著、懐かしのトッテツ編集委員会 編『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』小川作蔵、あさひ印刷所、新潟県見附市本町2丁目15-9、2009年5月25日。
- 見附市. “広報見附 2011年11月 p.3 昔と今、今と未来をつなぐ刈谷田川”. 2018年9月3日閲覧。
- “五万分一地形圖-三條(Stanford University Libraries)”. 2018年9月3日閲覧。
- 栃尾鉄道案内(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 折込 栃尾鉄道路線図(大正4年開業時)
- p.35 見附町略図