上山勘太郎 (16代)
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16代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英夫[1][2][3]、1899年(明治32年)11月3日 - 1984年(昭和59年)1月8日)は、日本の実業家。大日本除虫菊会長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の三男。同社会長を務めた上山英介の実父、同じく会長を務めた上山直武の養父。
経歴
[編集]和歌山県有田郡保田村山田原出身。上山英一郎の三男、十五代勘太郎、英三の弟である[1][2][3]。
1924年、京都帝国大学経済学部卒業[2][3][4]。日本勧業銀行に入り、検査役・鑑定役・大阪支店副支配人などを歴任し、1938年、退職して大日本除虫菊会社副社長に就任[1][2]。1943年、勘太郎を襲名し第3代社長に就任[5]。1981年、会長に就任[6]。
人物
[編集]1932年、分家した[1][2]。趣味はゴルフ、読書[1]、茶道[7]。大阪府豊中市桜塚[1]・同市岡町錦通三丁目[2]、東京牛込区(現新宿区)市谷鷹匠町[3]、兵庫県西宮市霞町などに居住した[7]。宗教は浄土宗[7]。
1965年、藍綬褒章を受章[6]。1969年、勲四等瑞宝章授章[6]。著書には、『日本に於ける除虫菊』がある[7]。
家族・親族
[編集]- 上山家
- 妻・昌子(1907年 - ?、和歌山県、山口孫七の長女)[2]
- 養子・直武(1924年 - 1997年)[7]
- 長女(直武の妻、1928年 - )[7]
- 男(1929年 - )[2]
- 養子・久夫(大日本除虫菊取締役、1932年 - )[7]
- 二女(久夫の妻、1934年 - )[7]
- 二男・英介(1937年 - 2015年)[2]
- 親戚
- 上山市郎兵衛(上山殖産社長、南海水力電気社長、内外除虫菊会長)
- 上山薫(内外除虫菊社長)
- 川勝傳(南海電気鉄道社長・会長)
- 清滝幸次郎(池田銀行頭取)
- 山口孫一(紀陽銀行頭取)
- 山口孫七(紀伊貯蓄銀行頭取)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『人事興信録 第12版 上』ウ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第13版 上』う33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月10日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第11版 上』ウ48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月18日閲覧。
- ^ 『京都帝国大学一覧 自大正13年 至大正14年』卒業生姓名 経済学士620頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月27日閲覧。
- ^ 金鳥のあゆみ 昭和時代(戦前)、大日本除虫菊株式会社公式サイト。
- ^ a b c 金鳥のあゆみ 昭和時代、大日本除虫菊株式会社公式サイト。
- ^ a b c d e f g h 『大衆人事録 第二十三版 西日本編』う167頁。