三国広見

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三国 広見(みくに の ひろみ、生没年不詳)は、奈良時代貴族真人官位従五位下能登守

経歴[編集]

桓武朝天応元年(781年)4月、従六位上から従五位下に叙爵されるのが史料における初見。同年5月には主油正に任ぜられる[1]。翌延暦元年(782年)6月、越後介[2]。同3年(784年)3月、能登守と地方官を歴任する。同4年(785年)7月に笠雄宗と役職を交替する。ところが、同年10月、謀反を誣告したという罪で、斬刑に処せられるところを、死一等を減刑して、佐渡国に配流されたという[3]。これは同年9月の藤原種継暗殺事件と、広見配流と同月の安殿親王(のちの平城天皇)立太子の間に起こった出来事であり、種継暗殺に関係した処置と推定されている。

なお、佐渡国分寺跡から出土した文字瓦に官人像の絵と「三国真人」の署名のあるものがある。

官歴[編集]

続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』巻第三十六
  2. ^ 『続日本紀』巻第三十七
  3. ^ 『続日本紀』巻第三十八

参考文献[編集]