コンテンツにスキップ

七州城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
七州城
愛知県
復興隅櫓(2012年(平成24年)4月)
復興隅櫓(2012年(平成24年)4月) 地図
別名 挙母城
城郭構造 平山城
築城主 内藤学文
築城年 天明2年(1782年
主な城主 内藤氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 石垣
指定文化財 豊田市指定史跡
「挙母城(七州城)隅櫓跡」[1]
位置 北緯35度04分49.33秒 東経137度09分02.48秒 / 北緯35.0803694度 東経137.1506889度 / 35.0803694; 137.1506889座標: 北緯35度04分49.33秒 東経137度09分02.48秒 / 北緯35.0803694度 東経137.1506889度 / 35.0803694; 137.1506889
地図
七州城 (挙母城)の位置(愛知県内)
七州城 (挙母城)
七州城
(挙母城)
テンプレートを表示

七州城(しちしゅうじょう)は、愛知県豊田市小坂本町付近にあった日本の城。「七州城」の呼称は通称であり、正式には「挙母城」(ころもじょう)という。1782年(天明2年)に築城され、挙母藩藩庁が置かれた。遺構の一部(隅櫓跡)が「挙母城(七州城)隅櫓跡」として1972年(昭和47年)2月24日付け(桜城の隅櫓跡と同日付け)で豊田市指定史跡に指定されている[1]

概要

[編集]

挙母には、鎌倉時代1309年中條景長によって金谷城が築かれたが、戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、江戸時代初期である1604年に三宅康貞が1万石で入封した。康貞は城の破損が著しいことから、金谷城から1キロメートルほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから俗に桜城といった。寛延2年(1749年)、内藤氏が城の改修を計画し着手したが、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、桜城から高さ65メートルほどの丘である童子山に移し、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、「七州城」といった[2]

遺構

[編集]

明治以降は学校敷地となり、一部が豊田市立童子山小学校(移転)や愛知県立豊田東高等学校(移転)として利用され、現在は豊田市美術館及び豊田市博物館郷土資料館近代の産業とくらし発見館を統合して、2024年4月26日開館[3])の敷地と城跡公園として整備されている。

遺構としては、豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り、1977年(昭和52年)に隅櫓が復興されている[4]。隅櫓に隣接する書院は「又日亭」(ゆうじつてい)といい、明治まで寺部城の城内にあった書院である。明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定であったが、1977年(昭和52年)の隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築された[5]。また、挙母祭りの山車蔵に、城の建物の解体部材を転用したものがある。

その他、豊田市内の個人宅に、蔵を移築したものと伝承のある建物が現存している。

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 豊田市の文化財(指定・登録・選定)”. 豊田市公式HP. 2022-006-22閲覧。
  2. ^ 渡辺善次「三河挙母七州城沿革小史」愛知県郷土資刊行会、1985年、181頁。
  3. ^ 豊田市新博物館
  4. ^ 茶室|豊田市美術館 (Toyota Municipal Museum of Art)
  5. ^ 挙母城(七州城) / 帝國博物学協会 三河國

外部リンク

[編集]