ルマ

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Ruma
Рума
—  基礎自治体・市  —
街の広場

紋章
ルマのセルビアにおける位置
座標: 北緯45度00分 東経19度50分 / 北緯45.000度 東経19.833度 / 45.000; 19.833
セルビア
地方 ヴォイヴォディナ
スレム郡
地区 17
行政
 - 市長 Goran Vuković (DS)
面積[1]
 - 自治体 582km2 (224.7mi2)
人口 (2011)[2]
 - 市街 30,076人
 - 基礎自治体 54,339人
等時帯 CET (UTC+1)
 - 夏時間 CEST (UTC+2)
郵便番号 22400
市外局番 +381 22
ナンバープレート RU
ウェブサイト www.ruma.rs
ルマ自治体の地図
正教の教会

ルマセルビア語: Рума/Ruma)はセルビアの都市およびそれを中心とした基礎自治体ヴォイヴォディナに位置する。2011年現在の人口は市街が30,076人で基礎自治体全域では54,339人であった。

歴史[編集]

ルマでの人の生活の跡は先史時代に遡る。自治体内で最も重要な遺跡は青銅器時代のフルトコヴツィ英語版近くのゴモラヴァGomolavaの遺跡[3]で、それを含め紀元前9世紀[4]に遡るボストスカ文化英語版の2つの墓地と紀元前3千年のヴチェドル文化英語版の陶器[5] が発掘されている。

この地域で最初に暮らし始めたと知られる人々はイリュリア人ケルト人を起源とするアマンティニ英語版、ブレウチBreuciスコルディスキと言った様々な民族であった。ローマの支配時にはもともと居たこの地域の民族は独自の民族の特徴を失い、ローマの文化を取り入れた。ルマの自治体内には大きなローマ人の集落は無いが、ローマン・ヴィラ英語版で知られる農地と思われる物は多く見つかっている。

フン族ゲルマン人アヴァール人スラヴ人の侵入によってこの地域のローマ文化は破壊された。その後に続く数世紀は、フランク王国ブルガリア帝国ビザンティンハンガリー王国がこの地域を支配している。ルマの地名が最初に言及されたのは1566-1567年からのオスマン帝国の帳簿defterである。当時、ルマの村の住民はセルビア人で49戸の住居と1つの教会があり、3人の聖職者がいた.[6]

1718年以来、ルマはハプスブルク君主国の施政下にあった。1746年にルマの町がルマの村の近くに作られたが、最初の町の住民はセルビア人で[6]近隣の村からやって来た。同様にドイツからドイツ人もやって来た。19世紀初めにクロアチア人ハンガリー人も住むようになった。1807年にティツァノヴァの乱英語版で知られる大きなスレムの小作人による反乱がルマの農場とヴォガニ英語版の村の中心で起こった。1848年革命(1848-49)の期間にはルマはスレムでのセルビア国民運動の重要な中心の1つであった。

19世紀後半から20世紀初めにかけてルマはクロアチア=スラヴォニア王国英語版シルミア郡英語版の首府であった。1910年の国勢調査によるルマの自治体の人口は49,138人を数え、そのうち22,956人はセルビア語話者で、15,529人はドイツ語、5,746人はハンガリー語、3,730人はクロアチア語のそれぞれの話者であった[7]

ハプスブルク君主国の崩壊後、1918年11月24日にルマのシルミア議会はシルミアをセルビア王国に統合することを宣言した。1933年にルマは公式に都市の地位を得た。第二次世界大戦が始まるとルマはヴォイヴォディナドイツ人マイノリティの中心の1つであった[6]。 1942年に枢軸国のルマ占領時、地元の民族ドイツ人の志願兵によりRuma ES der DMで知られるナチス・ドイツドイツ国防軍の部隊が形成された[8]

多くの非ドイツ系のルマの市民は反ファシズムに参加し、枢軸国の占領に対して闘争した[9]。1944年、戦争の結末として多くの民族ドイツ人たちはパルチザン赤軍を前にルマから逃亡した[9]。戦後、かつてのユーゴスラビアの各地からの移住者がこの地域に移り住んで来た。1990年代には約1万人の内戦による難民がクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナコソボから逃れルマで暮らしていた。1949年にユーゴスラビア空軍が支援するパイロットスクール、パラシュート・インストラクター学校、飛行機製造学校のVazduhoplovni Savez Jugoslavijeがルマに開かれた。 これは1950年に街の中心部で催された国際アエロミーティングで賞賛に達した。

地区[編集]

ルマ基礎自治体にはルマ市と以下の村落が含まれる。

  • Buđanovci
  • Vitojevci
  • Voganj
  • Grabovci
  • Dobrinci
  • Donji Petrovci
  • Žarkovac, Ruma
  • Klenak
  • Kraljevci
  • Mali Radinci
  • Nikinci
  • Pavlovci
  • Platičevo
  • Putinci
  • Stejanovci
  • Hrtkovci

著名人[編集]

姉妹都市[編集]

脚注・典拠[編集]

  1. ^ Municipalities of Serbia, 2006". Statistical Office of Serbia. Retrieved 2010-11-28.
  2. ^ 2011 Census of Population, Households and Dwellings in the Republic of Serbia: Comparative Overview of the Number of Population in 1948, 1953, 1961, 1971, 1981, 1991, 2002 and 2011, Data by settlements". Statistical Office of Republic Of Serbia, Belgrade. 2014. ISBN 978-86-6161-109-4. Retrieved 2014-06-27.
  3. ^ CEEOL BALCANICA , Issue XXXVI /2005”. Ceeol.com. 2013年10月15日閲覧。
  4. ^ http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/balcanica%2035/01%20Tasic.pdf
  5. ^ http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/Balcanica_XXXVI_2005.pdf
  6. ^ a b c History”. Ruma.rs (1944年10月27日). 2013年10月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年10月15日閲覧。
  7. ^ Homepage - www.talmamedia.com
  8. ^ Axis History”. Axis History. 2013年10月15日閲覧。
  9. ^ a b Opština Ruma - Istorija” (Serbian). Internet Media (2006年). 2010年11月14日閲覧。

外部リンク[編集]