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モナシア=ドレーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Monacia-d'Aullène
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) コルス地方公共団体
(département) コルス=デュ=シュド県
(arrondissement) サルテーヌ郡
小郡 (canton) グラン・シュド小郡
INSEEコード 2A163
郵便番号 20171
市長任期 マルク・リュシアニ
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes du Sud Corse
人口動態
人口 506人
2014年
人口密度 13人/km2
住民の呼称 Monaciacci
地理
座標 北緯41度30分52秒 東経9度00分44秒 / 北緯41.5144444444度 東経9.01222222222度 / 41.5144444444; 9.01222222222座標: 北緯41度30分52秒 東経9度00分44秒 / 北緯41.5144444444度 東経9.01222222222度 / 41.5144444444; 9.01222222222
標高 平均:120m
最低:0m
最高:1188 m
面積 km2
Monacia-d'Aullèneの位置(フランス内)
Monacia-d'Aullène
Monacia-d'Aullène
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モナシア=ドレーヌMonacia-d'Aullèneコルシカ語:A Munacìa d'Avretu)は、フランスコルス地方公共団体コルス=デュ=シュド県コミューン

地理

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オルメト塔はジェノヴァ共和国支配時代に建設された

モナシア=ドレーヌは、島の南端を占めるフレト地方に属する。コミューンは北西をサルテーヌと、南東をピアノトリ=カルダレロと接している。

コミューンにはスパルタノ川とシオクシア川が流れる。

由来

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言い伝えによると、Monaciaとは修道士(moine)の姿に見える岩、コミューンの沖合に浮かぶ小島から名づけられたという。

歴史

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コミューンは、1864年3月30日の帝国デクレにより、オレーヌの集落から独立した村となった。この分離は土地区画の紛争によるものである。フランス第二帝政時代、この紛争は政治的理由から強くなった。

2010年時点で、モナシア=ドレーヌには462人が、オレーヌには182人が住民登録していた[1]

人口数は、夏の休暇時期に、コルス人が言うところのディアスポラたちがやってくると、普段の5倍かそれ以上になる。

人口統計

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1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2005年 2014年
342 325 353 421 412 396 476 506

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[3][4]

ゆかりの人物

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  • フランソワ・サントニ(fr) - コルス民族解放戦線(fr)の政治家。2001年8月、モナシア=ドレーヌで暗殺された。

脚注

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