ホンジュラスの経済

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ホンジュラスの旗 ホンジュラスの経済
通貨 レンピラ (HNL)
会計年度 1月1日-12月31日
貿易機関 WTOドミニカ共和国および中央アメリカ自由貿易協定(DR-CAFTA)英語版など
経済統計
GDP順位 113位(2013年)
GDP 398億米ドル(2011年、PPP換算)
実質GDP成長率 3.1%(2014年)
一人当りGDP 4,700米ドル(2014年)
部門別GDP 農業 (14.0%)、工業 (27.4%)、第三次産業 (58.7%)(2014年)
インフレ 6.1%(2014年)
貧困層の人口 60%(2010年)
ジニ係数 57.7%(2007年)
労働人口 358万人(2014年)
部門別労働人口 農業 (39.2%)、製造業 (20.9%)、サービス業 (39.8%)(2005年)
失業者 -
失業率 4.5%(2011年)※ただし被雇用者の3分の1が不完全雇用である
主要工業部門 製糖、コーヒー、織物及びアパレルニット、木材加工、タバコ
貿易
輸出 85億2000万米ドル (2014年)
エリア別輸出先 アメリカ合衆国 35.2%、ドイツ 8.4%、グアテマラ 6.3%、ニカラグア 5.9%、メキシコ 4.4%(2014年)
輸入 117億9000万米ドル(2014年)
エリア別輸入元 アメリカ合衆国 43.3%、ドイツ 9.4%、中国 7.6%、メキシコ 5.6%、エルサルバドル 5.1%(2014年)
財政状況
国家借入金 GDP比44.3%(2014年)
歳入 33億5400万米ドル(2014年)
歳出 43億3500万米ドル(2014年)
経済援助 -
出典:CIA World Factbook

ホンジュラスの経済(ホンジュラスのけいざい)では、ホンジュラスの経済について述べる。


対外債務[編集]

ホンジュラスの歴史は債務の歴史である[1]。1866年の鉄道スキャンダルを例にとる。

ホンジュラスの国際競争力は低く、輸送手段の乏しさがその背景にあった。

1847年から東西沿岸をつなぐ鉄道を敷設しようという構想が存在したものの、パナマ運河建設に熱心であったアメリカが実現できないよう干渉した。鉄道ができるとパナマ運河に投下した資本がうまく回収できなくなるからであった。

1864年、ホセ・マリア・メディナが大統領になった。メディナは頓挫していた鉄道計画を実現しようと、1866年3月に欧州へ2人の使者を送った。フランス人のビクトル・エランと邦人外交官のカルロス・グティエレスである。2人は100万ペソの借款を25年無利子でとりつけてきたが、しかし後で信用履歴のひどさが露見する。

中米各国は、独立時に内紛などで資金をイギリスから借款で得ていた。その後、中米が分裂すると、イギリス領事の調停により各国に負債が分散された。コスタリカエルサルバドルグアテマラは返済に手をつけていたが、ホンジュラスとニカラグアは未返済ということが判った。独立当初にホンジュラスが抱えていた債務は2万700ポンドで、1867年には利子などでおよそ9万ポンドにもふくらんだ。この他に、過去の政権の負債が続々と判明して債務は3万ポンドくらい増えた。

ホンジュラスは返済の意思を示さなくてはならなかった。そこでまず、9000ポンドを年利5%で借りて返済し、鉄道資金を得るための交渉の糸口にしようとした。そして1867年3月、100万ポンドの融資を得た。10月も100万ポンドを得た。債務はいずれも毎年14万ポンドずつ15年返す契約であった。政府は借りに借りまくり、元本総額は600万ポンドにのぼった。

しかし、実際に鉄道敷設へ使われたのは約30万ポンドにとどまり、結局69kmしか延びなかった。借款の大部分は欧州の金融ブローカーや、政府派遣団が横領したとみられる。事実、グティエレスは豪邸を建てている。これが鉄道スキャンダルである。

1950年代のフアン・マヌエル・ガルベス政権時代に最後の返済があり、それ以来、ホンジュラスは借り換えばかりしている。

新自由主義経済[編集]

ホセ・シモン・アスコナ・デル・オヨ(1927-2005)は、1985年11月29日の選挙により大統領となった[2]。日本に先駆けるかのように「失われた10年」と呼ばれた不況期の就任であった。32億ドルの債務のうち、対外債務だけをとってもGDPの44%にのぼった。また、1980年代の政府はエル・カホン水力発電所を建設しようと、対外債務の半分をつぎこんでいた。1989年、5700万ドルのデフォルトにより、世界銀行からは新規借款受け取り国として不適切だと指をさされ、双子の赤字に苦しむアメリカも援助の中断を決めた。

ラファエル・レオナルド・カジェハス・ロメロが1990年に大統領となり、政権交代が実現した。カジェハスは米国の大学で農業経済を専攻、帰国後は経企庁長官や農業・資源大臣などを歴任していた。選挙参謀の富豪リカルド・マドゥーロを無任所大臣格の経済顧問にすえて、新自由主義をめざした経済改革を行った。IMFの構造調整は全面的に受け入れた。規制緩和、貿易の自由化、外国投資の自由化、民営化といったものを推進した。緊縮財政、公務員の削減をとっても、日本の新自由主義場化と重なるところが多い。

副作用は相当なものであった。通貨レンピラは、それまで1ドル2レンピラだったのが、1990年3月には4.3レンピラに暴落した。輸入品の高騰は消費者物価を直撃。1990年を基準にすると、翌年は1.3倍。1993年には1.6倍まで跳ね上がった。また、緊縮財政で補助金がカットされていったせいで、公共料金も水道からゴミ処理に至るまで軒並みに上がった。

この政権は末期になると、公権濫用と汚職疑惑で本格的に捜査、告訴された。カジェハス自身と周辺の高官、親族、軍高官に対し、大統領府機密費の流用、外人への旅券不発発給、大統領府が主導した石油安定基金の2億8000万レンピラとも言われる使途不明金、大統領が支持した公共事業通信交通省の機材の不正払い下げ、森林庁の使途不明金など、数え切れない容疑であった。1996年末には当局が麻薬取引容疑の捜査が国会議員に妨害されていると発表。裁判所は爆弾テロに遭った。カジェハスは不逮捕特権を利用して訴追を逃れた。彼の所属する国民党は国民の支持を失った。

我々のルーツ[編集]

政府は1995年、少数民族を対象にした貧困削減戦略「我々のルーツ[3]」にとりかかった[4]。2年後、世界銀行が資金・技術援助を開始。戦略は2010年まで実施された。資源は各民族の人工比率とプログラム遂行能力に応じて割り当てられ、少数民族が求める道路の建設や修復、教育や福祉の分野に集中投下された。

戦略は当初、激しい批判にさらされた。カリブ海沿岸に住むガリフナという少数民族がいる[注 1]。彼らの代表セレオ・アルバレス・カシルドの請願書「ガリフナ共同体の土地問題」によると、世銀は1990年代の「国土大改造計画」に貧困削減戦略よりも資金を出しており、計画がもとでガリフナは土地を奪われている。開発業者が土地権利関係の曖昧である隙につけこんだのである。

戦略が終了してから、世銀は汚職などの欠陥を報告している。

政治記者マヌエル・トレス・カルデロンは次のように指摘する。

--ホンジュラスの政策は事実上、世銀やIMF、米州開発銀行米国国際開発庁がつくっている--

パワーバランスの背景には移民の多さがあるかもしれない。アラブ系ユダヤ系の移民は、数に物をいわせてホンジュラスの経済を左右している。鉄道スキャンダルでふれたメディナ政権が1866年移民法を制定し、特権的待遇を約束した。そして、オスマン帝国崩壊の前後に多くやってくるようになった[5]

1910年頃、アラブ系移民はコルテス県で寡頭制の支配層となりつつあった。彼らは現代にもなると社会的地位が磐石である。たとえばファラフ一族やアタラ一族は世界金融グループのen:Ficosa などを所有する。

ユダヤ系移民は、セファルディムの詳細が不明。アシュケナジムは先のアラブ系と同じく移民法をきっかけに定住した。しかし、国籍がドイツとかロシアとかさまざまであったがゆえに数が不明である。最富裕層といわれるハイメ・ローセンタールとジルベルト・ゴールドステインがグルーポ・コンチネンタルというコングロマリットを所有している。さらに、ローセンタール家は自由党で、ゴールドステイン家は国民党で、入閣するなどして政府の要職に就いている。

ユダヤ系の代表格で[6]モルドバ出身のアメリカ人であったサミュエル・ゼムレーがいる。彼はクヤメル・フルーツ会社を興してプランテーションを営み、ユナイテッド・フルーツと鎬を削った。UFC は1913年すでに政府と契約し、テラ鉄道会社およびトルヒージョ鉄道会社を設立していた。しかし、ゼムレーはボニージャ大統領を支援して政府に影響力を持つ相手であった。そこでウォール街大暴落 (1929年)から間もない11月、互いに自社株を交換した。UFC はクヤメル社を吸収。ゼムレーはUFC の筆頭株主となった。翌年、UFC を買収。1951年まで経営権を握った。1941年にはパン・アメリカン農業大学を創立している。時を経て1975年4月8日、旧UFC ユナイテッド・ブランズの株取引がすべての証券取引所で停止された。これは、同社が政府高官数人へ125万ドルの賄賂を供与した事実が公となったからである[7]。高官の一人オズバルド・ロペス・アレジャンス将軍は、スイス銀行のナンバーアカウントを通して賄賂の一部を受け取った[8]

アラブ・ユダヤ以外では、シチリアから米国籍でやってきたヴァッカロ兄弟がいる。1906年にヴァッカロブラザーズ[注 2]を設立し、同年に政府と55年間の契約をする。同社が鉄道と埠頭を建設する見返りに、鉄道敷設1km につき250ha の無償利用を認め[注 3]、輸出税を免除された。1913年に同社が設立したアトランティダ銀行は、ホンジュラス中央銀行ができる1950年まで通貨発行権を握った。

脚注[編集]

  1. ^ ガリフナの詳細は桜井・中原 45・46章を見よ
  2. ^ スタンダード・フルーツ社の前身
  3. ^ まるでベクテルである。

出典[編集]

  1. ^ 節全体。 桜井三枝子・中原篤史 『ホンジュラスを知るための60章』 明石書店 2014年 23章
  2. ^ 節全体。 桜井・中原 33章
  3. ^ Nuestras Raices
  4. ^ 節全体。 桜井・中原 47章
  5. ^ アラブ・ユダヤにつき。 桜井・中原 41章
  6. ^ 以下2例につき。 桜井・中原 6章
  7. ^ ル・モンド 1975年4月9日
  8. ^ タイム (雑誌) 1975年4月4日

参考文献[編集]

  • 桜井三枝子・中原篤史『ホンジュラスを知るための60章』、明石書店、2014年

関連項目[編集]