ブラチスラヴァ城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ブラチスラヴァ城
Bratislavský hrad
ブラチスラヴァ Coat of Arms of Bratislava.svg 旧市街
スロバキア
Bratislava, Hrad, Slovensko.jpg
ブラチスラヴァ城
形状から、「ひっくり返ったテーブル」
(upside-down table)
または、テーブルを寝台にかえて (upside-down bedstead)とも呼ばれる[1]
ブラチスラヴァ城の位置(スロバキア内)
ブラチスラヴァ城
座標 北緯48度08分32秒 東経17度06分00秒 / 北緯48.14222度 東経17.10000度 / 48.14222; 17.10000座標: 北緯48度08分32秒 東経17度06分00秒 / 北緯48.14222度 東経17.10000度 / 48.14222; 17.10000
種類
施設情報
管理者 モラヴィア王国, ハンガリー王国, チェコスロバキア, スロバキア
一般公開 屋外エリアは無制限、博物館は営業時間のみ開放
現況 再建中
歴史
建設 9世紀 – 18世紀
再建 1956年-1964年
主な出来事
  • 1811年5月28日、衛兵の不注意による火災で全焼
  • 1930年代に、再建するか、完全に撤去するかの計画がなされた。

ブラチスラヴァ城 (スロバキア語: Bratislavský hradIPA発音記号 :Sk-Bratislavsky_hrad.ogg ˈbracislawskiː ˈɦrat[ヘルプ/ファイル]ドイツ語: Pressburger Schloss, ハンガリー語: Pozsonyi Vár)は、スロバキアの首都ブラチスラヴァの主城である。ブラチスラヴァ市街の真ん中を通るドナウ川を見下ろす、小カルパチ山脈の孤立した岩丘の上に建つ長方形の4隅に塔を持つ巨大な城である。

その威容と位置取りから、何世紀にもわたって都市統治の象徴であった。

城の敷地[編集]

【補足】文章に登場する○数字は、左に示す図面上の○数字の位置の建物の事である。

図面

⑧城(宮殿)[編集]

4隅に塔と 80 m (260 ft) の井戸がある中庭を持つ。一番高くて大きい塔は南西の Crown Tower である。47m(154 ft)の塔は13世紀からのもので、 1500年代半ばから約200年間、ハンガリーの戴冠用宝物が納められていた[2]

(①~④)入城門[編集]

  • ①ウィーン門(Viedenská brána、南西)– 1712年に建造、向かい側には国会議事堂がある。
  • ②ジグムンド門(Žigmundova brána、南東)– もっとも保存状態の良い15世紀に建てられた門
  • ③ニコラス門(Mikulášska bránka、北東)– 16世紀に建造
  • ④Leopold Gate(Leopoldova brána)
城門
①ウィーン門
②ジグムンド門
③ニコラス門
④Leopold Gate
空中写真


その他の建物[編集]

歴史[編集]

Crown Towerからドナウ川を見下ろした風景

先史時代 (2800 – 450 BC)[編集]

今日のこの城がある街には、何千年もの間人が住んでいた。なぜならアルプス山脈カルパチア山脈の間を通りヨーロッパ中央に抜ける交易路の途上にあり、ドナウ川を渡れる重要な洗い越し(徒歩で渡れる浅瀬)であり、バルカン半島アドリア海ライン川バルト海を中継する重要な交易路であり、最も重要な交易路である琥珀の道の経由地である。

Boleráz culture(昔の言葉では Baden culture)の人々が、この場に最初に居を築いた文明だと判っている。これは紀元前3500年頃の事である。彼らは城を、今日のブラチスラバ旧市街のある場所にアクロポリスの一種、そして防衛拠点として建設した。

さらに発展したのは初期鉄器時代ハルシュタット文化(750 – 450 BC)からである。当時のKalenderberg Cultureの人々は、城の有った岩丘を穿ち建物を建てた。再び、「城」は旧市街の西部にある居住地のためのアクロポリスを兼ねた。

ケルトとローマ(450 BC – 西暦5世紀)[編集]

後期鉄器時代のラ・テーヌ期(450 BC – 1 BC)には、城の丘はケルト人の最も重要な中心地となった。紀元前後期(125 BC後~)、城はケルト系のボイイ族集落のアクロポリスとなった。

紀元前9世紀以降、ローマ軍の国境となったドナウ川のある城の丘には、ローマ人たちが住んでいた。西暦5世紀頃(民族移動時代)については、ほとんどわかっていない。

モラヴィア王国のバシリカの図解

スラヴ人、ニトラ公国、モラヴィア王国(500年 – 907年)[編集]

スラブ人がこの地に訪れると、状況は変わった。当初は、古代ローマとケルトの建物を部分的に使用し、いくつかの要塞を追加した。おそらく8世紀の終わり(間違いなければ9世紀初頭)のニトラ公国時代に、5万5000平方メートルの大面積を囲う木製の城壁を持つスラブ式の城が建設された。9世紀後半のモラヴィア王国期には、住居やバシリカに囲まれた石の宮殿が加えられた。

中世(907年 – 1531年)[編集]

プレスブルク城(ブラチスラヴァのドイツ語の旧名)の眼下で、艦隊を失う神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世, 14世紀の写本

新しい石造りの城の建設は10世紀に始まったが、作業は停滞した。しかし、この城はハンガリー王国イシュトヴァーン1世国王の治世の中心地の1つであった。ポツノニー郡を治める中心地とされ、ボヘミアチェコ)やドイツからの攻撃(例えば1030年、1042年、1052年、1108年、1146年)に対して王国を保護し、さらにハンガリー王国におけるイシュトヴァーン1世死去後等の権力闘争においても重要な役割を果たした。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は、城の攻略を試みたが、ハンガリーの伝承によればハンガリー人兵士Zothmundが艦隊に侵入し、穴を開けて沈没させたとされている。ハンガリー王シャラモンは、ラースロー1世の勅令でニトラの刑務所に送られるまで、ここで過ごした。同じころ、古い城壁の近代化と、参事会会議場を持つ St. Savior 教会の増設が行われた。それから約100年後には、イシュトヴァーン3世が敵から逃れるために、この城に落ち延びた。

ハンガリー王国の主城 (1531年 – 1783年)[編集]

城のthe Crown Towerに納められた冠、剣など

政治的な動向[編集]

1536年(事実上1531年)、オスマン帝国にハンガリーの一部が征服された後、残った部分はオーストリア系ハプスブルク家が支配するロイヤル ハンガリーに改名し、国会議事堂と中央省庁が集まり、戴冠式を行う首都はプレスブルク(現在のブラチスラヴァ)に移された。結果として、ブラチスラヴァ城は王城となり、ロイヤル ハンガリーの王たちの正式な王座となった(ただし、平時はウィーンに住んでいた)。

同時に、この地は16世紀初頭から起きる反ハプスブルク家の潮流に幾度も直面することとなった。例として、反ハプスブルク家の指導者ベトレン・ガーボルの軍隊によって1619年から1621年の間に城を占領され、1622年まで王冠が城から持ち出され、オーストリアの皇帝軍に再占領された。

crown towerに納められた戴冠用の宝冠[編集]

バロック様式への改装[編集]

初期の改装[編集]

ハンガリー帝国皇室の建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・カルロネ英語版の設計をもとにバロック建築へ再建されていった。1635年に強化され、1647年頃に完成した。この改装後の城の外観は、基本的に現在まで保持されている外観である。

1653年には、すべての木製の天井が悪いことが判明し、次の年に取り替えなければならなかったので貴重な絵が失われた。10年後には、オスマン帝国からの襲撃に対抗する為に要塞機能を強化した。要塞のさらなる改良は1673年頃に続いた。それらは最終的に1683年にウィーンでトルコ軍が敗北して終わった。1703年に、敷地の北東に兵舎が建てられ、工廠も兵舎となった。現在のウィーン門は、1712年に皇帝カール6世の戴冠式の際に建設され、それ以来、城のメイン・エントランスとして使われた。

マリア・テレジア改装[編集]

1740年にマリア・テレジアが、ハンガリー王国の女王となったとき、王国の貴族たちにオーストリアとハンガリーの両方に住むことを約束した。そして約束を守り、多くの時間をこの城で過ごした。1761年から1766年に、防衛城を(当時の)近代的王居に改装した。

しかし、小さな変更は早ければ1740年から行われ、内部の様々な変更に加えて、大きな庭が北側に造営され、植物学に興味があった夫の皇帝フランツ1世が城の東に小さな庭を造営した。

七年戦争では、ハンガリー騎士団が城に駆けつけ、マリア・テレジアをサポートした。

1765年のハンガリー貴族との対立では、貴族を代表したパラティン伯を任命せず、女王派の貴族を知事に任命した。この城は知事の座となり、county headの事務所ではなくなった。1765年以降の二代目知事は女王の娘マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)の婿アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンが任命された。 1766年に夫婦は移り住んだ。この夫婦は科学と文化に明るく、街の科学と文化を発展させた。

知事の事務所は狭かったため、1767年から1770年にかけて城の東壁に新しい宮殿(後にTheresianumと呼ばれる)が建てられた。高級家具や多くの芸術品が運び込まれた。1階にはファミリーギャラリーがあり、後に今日のウィーンにあるアルベルティーナ美術館の基礎となった。

さらに、城の北端には冬の乗馬校が、城の庭には夏の乗馬校が直接配置された。両方の城の庭園が(シェーンブルン宮殿スタイルで)改装され、灯油を使った夜間照明が初めて城への接続道路に導入された。 1770年、マリア・テレジア自身は、貴重な絵画や家具を主城とTheresianumの両方に提供するよう命令し、知事は完成したTheresianumに移った。マリア・テレジアもほとんど非公式に頻繁に訪れていた。

重要性の喪失と火災による焼失 (1783年 – 1811年)[編集]

1781年に新しい皇帝ヨーゼフ2世によって、知事は廃止された。(現在のアルベルティーナの)芸術品はウィーンとベルギーに移され、アルベルトは南ネーデルラント知事に就任した。他の物品もウィーンに移された。1783年に、王国の政治中枢はブダ(ブダペスト)に移され、この地の重要性は失われた。王国の戴冠用宝物も、ハプスブルク家の本拠地ホーフブルク宮殿に移された。

城は神学校となり、多くの重要な知識人を教育し、スロバキアの歴史において重要な役割を果たした。

1802年に神学校は別の場所に移り、城は兵舎として軍に割り当てられた。1809年に、ナポレオンの軍隊によって、街と城は攻撃を受けた。1811年5月28日に、城は守備隊員の不注意により、大火災と爆発を引き起こし、街の一部にも燃え広がった。

廃墟 (1811年 – 1953年)[編集]

19世紀中期の城

再建 (1953年以降)[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ Bratislava: City Guide - 192 ページ
  2. ^ Reconstruction of the Bratislava Castle. Chancellery of the National Council of the Slovak Republic. (May 2010). オリジナルの2013-09-21時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130921054043/http://www.bratislava-hrad.sk/media/files/nrsr-05-bratislavskyhrad-skladacka-en-web.pdf 2013年9月20日閲覧。. 

参考書籍[編集]

  • Mencl, Václav and Dobroslava (1936) (Czech). Bratislava: Stavební obraz města a hradu. Prague: Jan Štenc. 
  • Lacika, Ján (2000). Bratislava. Visiting Slovakia (1st ed.). Bratislava, Slovakia: DAJAMA. ISBN 80-88975-16-6. 

外部リンク[編集]