フンシンペック
独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線 គណបក្ស ហ្វ៊ុនស៊ិនប៉ិច | |
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党首 | Vacant |
成立年月日 | 1981年3月26日[1] |
本部所在地 | プノンペン |
国民議会議席数 |
0 / 125 (0%) |
元老院議席数 |
2 / 62 (3%) |
政治的思想・立場 | 王党派[2] |
国際組織 | 中道民主インターナショナル |
公式サイト | គណបក្សហ៊្វុនស៊ិនប៉ិច Funcinpec Party |
フンシンペック(クメール語: គណបក្ស ហ្វ៊ុនស៊ិនប៉ិច)は、カンボジアの政党[3] 。正式名称は、「独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線」[3]。国内ではフランス語名称"Front uni national pour un Cambodge indépendant, neutre, pacifique, et coopératif"の頭字語・FUNCINPECで広く知られる[1]。
概要[編集]
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シアヌーク国王派のサンクム(人民社会主義共同体)に端を発する王党派の政党。80年代には反ベトナム、反ヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)を掲げ、クメール・ルージュおよびソン・サン派と、一部カンボジアの西部辺境を支配するのみで実質は亡命政府に近い民主カンプチア連合政府(いわゆる「三派連合政府」)に加わり、シアヌークを大統領とする。国の実効支配はほとんど失っていたが、国際連合での議席を維持するなどアメリカ合衆国や中華人民共和国、そして隣国タイほかから支援を受けてカンボジア内戦を戦い、国際連合カンボジア暫定統治機構(明石康代表)の成立まで続いた。
1993年5月のカンボジア総選挙では第1党となり、党首ノロドム・ラナリットは第一首相となる。しかしその後1997年には第2党だった人民党との武力衝突が発生、フンシンペックは敗れて勢力は衰退した。
その後も細々と勢力を維持していたがラナリットが離党し、また復党したうえ政界引退を宣言するなど混乱が続き、2013年の国民議会選挙ではついに全議席を失った。2015年、ラナリットが党首へ復帰した。
脚注[編集]
- ^ a b Michael Hayes (2006年3月24日). “The rise and demise of Funcinpec” (英語). The Phnom Penh Post. オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2019年10月25日閲覧。
- ^ 西脇真一 (2018年6月17日). “カンボジア:国王の兄ラナリット氏が事故で重傷 妻は死亡”. 毎日新聞 (毎日新聞社) 2019年10月25日閲覧。
- ^ a b “フンシンペック党 フンシンペックとう National United Front for an Independent,Neutral,Peaceful and Cooperative Cambodia; FUNCINPEC”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年10月25日閲覧。