ビッグ・スティンク
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ビッグ・スティンク(Big Stink)は、1945 年8月9日の長崎市への原子爆弾投下に参加したアメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29-40-MO スーパーフォートレス爆撃機 (B-29爆撃機、ビクター番号 90) である[注釈 1]。
解説
[編集]第509混成部隊の第 393 爆撃戦隊に配属され、爆弾を積んだ B-29爆撃機ボックスカーを支援するカメラ機として使用され、爆弾の爆発と効果を撮影し、科学観測員も運んだ。
この作戦では C-14 の乗組員[注釈 2]によって飛行されたが、グループ作戦責任者のジェームズ I. ホプキンス ジュニア (James I. Hopkins, Jr.) 少佐が機長を務めた。
離陸直前、ホプキンス少佐はプロジェクト アルバータの理論物理学者ロバート・サーバーが各自装着用のパラシュートを忘れていたため飛行機から降りるよう命じた。そして、彼を乗せずに出発した。
サーバーは高速カメラの操作方法を知っていた唯一の乗組員だったため、テニアン島の基地からホプキンスへ無線でその使い方を指示した。 合流地点である屋久島上空で3機が集合し、攻撃始点の姫島へ向かう計画であったが、攻撃飛行隊2機はこの飛行機ビッグ・スティンクと合流できず、カメラなしで攻撃始点へ向かった。第1攻撃目標だった小倉は雲で覆われていたため、第2目標である長崎市へ変更し、日本時間11時2分にプルトニウム原子爆弾ファットマンを長崎市上空で爆発させた。
爆撃機ビッグ・スティンクは2機とは合流できなかったが、小倉へ向かい、上空が雲で覆われ、爆撃の跡もなかったためその後長崎市へ向かった。偶然にも爆風の影響を撮影するのに間に合うように長崎市に到着した。
その後沖縄の読谷飛行場でB-29ボックスカーとB-29グレート・アーティストと合流し、給油後テニアン基地へもどった。
戦後、機体は、「デイブの夢、デイブズ・ドリーム(Dave's Dream)」と改名された。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Campbell 2005, pp. 119–142.
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- Campbell, Richard H. (2005). The Silverplate Bombers: A History and Registry of the Enola Gay and Other B-29's Configured to Carry Atomic Bombs. Jefferson, North Carolina: McFarland & Company, Inc.. ISBN 978-0-7864-2139-8
外部リンク
[編集]- Hoover Institution Library & Archives が 2018/06/05 公開。 Motion picture film(広島原爆・長崎原爆に関連する動画映像) Harold Agnew Atomic Bomb film - YouTube