ノート:阿羅漢
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無名の節
[編集]殺す(√han)←ルート記号が見えるのですが、表音記号でしょうか、誤記でしょうか?Adacom 07:42 2003年8月8日 (UTC)
語幹の略語です。hanは殺すという動詞で、この分子がhatとなるんですナ。通常、こうあらわすんですが、Adacomさんが分からんのなら、みんな分からんでしょうナ。別の方法を考えます。√が 簡単なんだが‥‥ハハハハ。booze 10:33 2003年8月8日 (UTC)
- 『岩波仏教辞典』とウィキペディア日本語版は読者が違います。言い回しや語順を変えただけで仏教辞典の項目を持ってきても、百科事典の項目として機能するわけではないことが、このやり取りにもあらわれていると思います。--西村崇(会話) 2024年9月26日 (木) 12:00 (UTC)
要検証の部分について
[編集]記述を修正しましたが、阿羅漢と仏(如来)との関係性は無学位の記述、並びに十号から自明。ただ、菩薩の意味が衆生皆菩薩まで拡大し混乱を招くためか、菩薩については確かに私も見掛けたことはありませんでしたけれど、検索ではそれとみられる漢訳が幾つか存在します。脚注の付記で異論がないようでしたら、要検証を消去させてください。--118.86.254.143 2016年12月21日 (水) 17:10 (UTC)
- リバートしました。詳しくはこちらをご覧ください。ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。--Ryo 625(会話) 2016年12月22日 (木) 18:27 (UTC)
- せっかく記述を修正したのですから、編集合戦にするのではなく、修正した記述について、どこが「検証可能でない/独自研究である」かを具体的に御指摘ください。--118.86.254.143 2016年12月22日 (木) 18:48 (UTC)
- 118.86.254.143氏が「菩薩=阿羅漢」の出典として挙げている一例を指摘します。「諸阿羅漢菩薩智者及諸天神皆共守衞」これをどう読みますか?「諸々の阿羅漢であり菩薩であり智者であり及び諸天神であるものたちが皆共に守衛する。」と読めますか?この場合、一次資料ではなく、信頼できる二次資料を提示して、あなたの解釈が独自研究でないことを示すべきです。--Ryo 625(会話) 2016年12月22日 (木) 21:16 (UTC)
- (追記)菩薩と阿羅漢という字が連続している時に、「菩薩にして阿羅漢」と読む解釈が信用できる情報源によって示されているかどうかが問題なのです。
- もう一例あげると『道行般若経』も出典になりませんね。「是菩薩過阿羅漢地。出辟支佛地。於三昧中住。悉愍傷薩和薩無所見。於是中不取證。入空中深不作阿羅漢。菩薩作是行時。」これが「菩薩阿羅漢」ですか?この場合も確かな二次資料を提示して「菩薩=阿羅漢」と読むのが独自研究でないか検証すべきなのです--Ryo 625(会話) 2016年12月22日 (木) 21:36 (UTC)
- せっかく記述を修正したのですから、編集合戦にするのではなく、修正した記述について、どこが「検証可能でない/独自研究である」かを具体的に御指摘ください。--118.86.254.143 2016年12月22日 (木) 18:48 (UTC)
- 阿羅漢は仏教成立以前から存在した述語で、仏教が取り入れたものに過ぎませんから、漢訳仏典はもう立派な2次資料です。2次資料なので経典によって言説が違っていたりします。まして、それらをご都合主義的に解釈する教派・宗派・学者の3次言説は、もう勘弁してくれと言いたくなるほど多種多様多彩で、どうにも典拠になりにくいものです。せいぜいで辞典・事典ぐらいでしょうか。
- 諸仏典では、阿羅漢と声聞を併置させる表現が非常に多いです。ここからは独自研究です(といっても倶舎論には示唆されています)が、arhan のプロセスを経ずに、頓狂して神々や悪魔と対話する声聞が、今は昔で少なからず存在したため、「彼の声聞は阿羅漢だった」と表現する必要があったのでしょう。怪しげで霊媒みたいな者ではないですよという断り文句です。
- で、検索で現れた阿羅漢菩薩のすべてが典拠になるとは私も思っておりませんが、御指摘の「諸々の阿羅漢であり菩薩であり智者
であり及び諸天神であるものたちが皆共に守衛する。」は是れその通りですし、「是菩薩過阿羅漢地。出辟支佛地。」も、「是れ阿羅漢の地を過ぎた菩薩。辟支佛の地を(も)出ている」と読めます。前者はサンスクリット原典との対比が必要な検証可能性の段階ですが、後者は最狭義の菩薩だったという意味に他ならず、その必要もないほどです。 - [無学位の阿羅漢(果得者)は大乗小乗の範疇にはない。] について;
- 小乗に阿羅漢乗というのはないので小乗の範疇でないのは自明です(独自研究には当たりません)が、南伝を賤しめる戦前の"官製仏教"の影響が根強くあるので、この記述は残すべきと考えますが、いかがでしょう?
- 以上、ご了解いただければ、タグをはずしたく存じます。
- で、検索で現れた阿羅漢菩薩のすべてが典拠になるとは私も思っておりませんが、御指摘の「諸々の阿羅漢であり菩薩であり智者
- [扱い] について;
- 再修正しましたが、いかがでしょう?(阿羅漢有三毒は誰がいつ言い出したかは知りません。)--118.86.254.143 2016年12月23日 (金) 13:13 (UTC)
- 一次資料と二次資料についてはこちらを参照して下さい。Wikipediaのルールに従う積りがないのでしたら、ご自身のブログなどでエッセイとして執筆されることをお勧めします。--Ryo 625(会話) 2016年12月24日 (土) 07:50 (UTC)
- [扱い]については御了解いただけとものと解します。問題は「独自研究」に当たると御指摘の2箇所ですね。ルールには従っているつもりですが、要は同様の記述がなされている出典を示せということですね。いずれも自明のレベルのことで第3者の典拠を探したこともないので示せないのは確かです。意識していると出て来るかもしれないので、それまで独自研究のままで結構です。--114.134.195.239 2016年12月24日 (土) 16:53 (UTC)
- 何も了解した積りはありません。出典がないのでしたら、こちらとしてはWikipediaの方針によって削除するだけです。もちろん独自研究も削除対象です。(Wikipedia:独自研究は載せない)--Ryo 625(会話) 2016年12月24日 (土) 17:01 (UTC)
- 独自研究とされたうちの前者には典拠があり、独自研究ではないと言っているのです。別の表現で長らく追認されてきた記述でもあります。だいたい、声聞や仏・如来が阿羅漢なのに、どうして縁覚や狭義の菩薩が阿羅漢ではないのか、むしろあなたの方が典拠を示すべきほど自明なことでしょう。後者も「無学位の阿羅漢(果得者)は声聞乗ではない。」とすれば済む話しですが、それではまた南伝仏教を誹謗することになりかねないので、この記述でいかがでしょうかと言っているのです。--114.134.195.239 2016年12月24日 (土) 17:20 (UTC)
- 何も了解した積りはありません。出典がないのでしたら、こちらとしてはWikipediaの方針によって削除するだけです。もちろん独自研究も削除対象です。(Wikipedia:独自研究は載せない)--Ryo 625(会話) 2016年12月24日 (土) 17:01 (UTC)
- [扱い]については御了解いただけとものと解します。問題は「独自研究」に当たると御指摘の2箇所ですね。ルールには従っているつもりですが、要は同様の記述がなされている出典を示せということですね。いずれも自明のレベルのことで第3者の典拠を探したこともないので示せないのは確かです。意識していると出て来るかもしれないので、それまで独自研究のままで結構です。--114.134.195.239 2016年12月24日 (土) 16:53 (UTC)
- 2017年の1月に入ってから、Wikipediaの仏教関係の記事にこの「大正新修大蔵経データベース」での語句の検索結果を出典としてIP利用者が加筆している例を複数みかけます(特に編集回数が多いのは悟りという記事ですが、ほかにも複数の仏教系記事で同様の編集がなされています)。いずれも、出典と称して記入されているのは、このデータベースにおいて特定の単語を検索した検索結果であったり、漢文経典からの短い引用であったりします。漢文を翻訳せずにそのまま出典として用いることは、Wikipediaの仏教分野のローカルルールで容認されていたりしますでしょうか? ご存知のかたがおられたらご教示ください。--Leonidjp(会話) 2017年1月24日 (火) 07:21 (UTC)
問題点の指摘
[編集]2017/06/19
[編集]IP利用者が記入した要高次出典テンプレートについて。
{{lang-sa-short|arhat}}や{{lang-pi-short|arahant, arahanta}}の漢訳である'''応供'''は[[釈迦牟尼仏]]の別称である[[十号]]の1つでもある<ref name="ib19" />。阿羅漢は、もとは[[仏]]の別称であったが、後に仏と区別され、弟子([[声聞]])を指す言葉となった<ref name="ib19" />。{{要高次出典|title=意味不明または記述不十分で、出典内で矛盾を起こしている。|date=2017年6月}}[[大乗仏教]]では声聞を批判的に阿羅漢と呼び、仏と区別した<ref name="ib19" />。{{要高次出典|title=意味不明または記述不十分で、出典内で矛盾を起こしている。|date=2017年6月}}
- 「意味不明または記述不十分で、出典内で矛盾を起こしている」というこのテンプレートの指摘自体が意味不明。何が何とどのように矛盾をしているのか。--Leonidjp(会話) 2017年6月18日 (日) 15:52 (UTC)
- 釈迦は菩提樹下の(降魔)成道の前に阿羅漢であったことは、初期仏典以来の通説で否定しようがない。それがなぜ「仏の別称であった」となるのか?
- 声聞乗は小乗であるとして批判されたことは、大乗仏教のページの中村の出典にも記述されている。仏の別称であるはずの阿羅漢がなぜ批判的な呼び方になるのか矛盾している。--118.83.135.128 2017年6月19日 (月) 03:29 (UTC)
- 利用者:Ryo 625は、新たに出典が追加されているにも関わらず差し戻したが、矛盾する記述だけ残して、最悪オウムのようなカルトが出現することに責任を負えるのか? --118.83.135.128 2017年6月19日 (月) 03:29 (UTC)
- >>釈迦は菩提樹下の(降魔)成道の前に阿羅漢であったことは、初期仏典以来の通説で否定しようがない。それがなぜ「仏の別称であった」となるのか?
- コメント そういう疑問がある、という趣旨なのだそうです。聞きただしてようやく判明しました。
- >>声聞乗は小乗であるとして批判されたことは、大乗仏教のページの中村の出典にも記述されている。仏の別称であるはずの阿羅漢がなぜ批判的な呼び方になるのか矛盾している。
- コメント 「後に」という二文字を読めていないのではないかと思います。「阿羅漢は、もとは仏の別称であったが、後に仏と区別され、弟子(声聞)を指す言葉となった」。時系列の後先。阿羅漢が仏と区別される際に何が起こったか知りたいというなら、「矛盾」などと言わず単に自分の知りたいことを具体的に書けばよいだけでは?
- IP利用者118.83.135.128およびIP利用者118.83.139.18も、ここに列挙されているIP利用者群と同一人物ということでいいですか?--Leonidjp(会話) 2017年6月19日 (月) 07:18 (UTC)
- 同一人物かと思われるIPアドレス一個追加。--Leonidjp(会話) 2017年6月19日 (月) 07:20 (UTC)
- IP氏へ。一次資料であり専門家による読みの確認がなされない漢訳仏典の記述を新たな出典として、同じ記述を延々と再投稿されるつもりですか?--Ryo 625(会話) 2017年6月20日 (火) 11:28 (UTC)
- >>利用者:Ryo 625は、新たに出典が追加されているにも関わらず差し戻したが、矛盾する記述だけ残して、最悪オウムのようなカルトが出現することに責任を負えるのか?
- 報告 IP利用者によるこの発言について、Wikipedia:コメント依頼/118.83.135.128を提出しました。被依頼者のコメントと第三者のコメントが記入可能ですので、よろしければどうぞ。--Leonidjp(会話) 2017年6月25日 (日) 06:14 (UTC)
インデント戻します。この要高次出典テンプレートは三次資料に対して付けられていますが、三次資料より高次の出典というのはWikipediaで規定されていないでしょうから、テンプレートとして意味不明です。内容的に見ても、
- 釈迦は菩提樹下の(降魔)成道の前に阿羅漢であったことは、初期仏典以来の通説で否定しようがない。それがなぜ「仏の別称であった」となるのか?
については、この主張自体に出典が無いので、テンプレートの設置の理由そのものが独自研究ということになります。
また、
- 声聞乗は小乗であるとして批判されたことは、大乗仏教のページの中村の出典にも記述されている。仏の別称であるはずの阿羅漢がなぜ批判的な呼び方になるのか矛盾している。
これについては、上述のとおり「後に」の二文字によって具体的説明がスキップされているだけであるうえ、声聞なり阿羅漢を批判的に扱う主体については上述のとおり「大乗仏教では」という限定が付いておりますので、大乗仏教における阿羅漢の扱いが〈大乗仏教以外での「阿羅漢」の扱い〉と異なっていても、だからといって「矛盾」などとは言えません。声聞(阿羅漢)を扱っている主体が違っていますから。また、説明がスキップ(飛ばされている)からといって直ちに「矛盾している」とも言えません。
従いまして、この要検証テンプレートは不要かつ意味不明ですので削除します。--Leonidjp(会話) 2017年8月13日 (日) 02:51 (UTC)
2017/06/23-1
[編集]IP利用者のこの加筆により、阿羅漢に下記の文が加わりました。問題点の指摘を書いておきます。
果得としての阿羅漢果は声聞乗ではなく、[[瞑想]]や[[座禅]]で想じて作す境地でもないとされる<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』 (T1819_.40.0836a24 ~): 非須陀洹果作須陀洹果想。非斯陀含果作斯陀含果想。非阿那含果作阿那含果想。非阿羅漢果作阿羅漢果想。非聲聞乘作聲聞乘想。非辟支佛乘作辟支佛乘想。阿難。汝往重告諸比丘比丘尼優婆塞優婆夷來集聽法。此法皆是汝等昔所未聞。{{要高次出典|date=2017-05}}</ref>。
- 出典たる『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』からの引用部分には、阿羅漢果が「果得」であるとの情報は載っていない。
- IP利用者は「想じて作す」と読んでいるが、想と作はそれぞれ、脚注内(原文)では別の文に属しており、この二語の目的語が同一(=果)であることを支持する二次資料は挙げられていない。
- 「作すものではない」という否定の文意を「非」の字に担わせたいのであろうが、その読みが正しいとする二次資料は挙げられていない。たとえば「阿羅漢に非ざる果は、阿羅漢果の想を作る」とか、「非阿羅漢果が阿羅漢果の想を作る」とか、「阿羅漢果作と阿羅漢果想に非ず」とか、「阿羅漢果を作すに非ず、阿羅漢果を想ずる」などとも読み下せる。二次資料がないかぎりは、どの読み下しが正解だなどと決めようがない(=勝手に決めたら独自研究)。
- 出典たる『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』からの引用部分には、瞑想や座禅という語が無い。
なお、ここに挙げた上述の問題点のうち、3と4は、すでに30日ほど前に四禅でも指摘された問題と同じものであり、2と3は四禅にて20日ほど前にも指摘されています。従ってこれは、20〜30日も前に既に指摘されている問題点をまた新たにここへ再現していることが明らかです。--Leonidjp(会話) 2017年6月23日 (金) 02:34 (UTC)
報告 上記6/23から40日ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp(会話) 2017年8月4日 (金) 10:54 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 03:28 (UTC)
2017/06/25
[編集]IP利用者のこの編集によって、下記の文が阿羅漢に加わりました。問題点の指摘を書いておきます。
形容詞の arhat は応供としての資格を表す尊称であるため、漢訳経典では「偉大なる阿羅漢(にして)仏・如来」と言った表現が出現する。こうした表現は[[声聞]]や[[縁覚]](独覚:どっかく/辟支仏:びゃくしぶつ)にもみられる<ref>大正新脩大藏經テキストデータベース 『[[折疑論]]([[師子]]述註)』 (T2118_.52.0797c01: ~): 昔華嚴會上二乘聖人。皆是漏盡大阿羅漢。阿羅漢。此云無學。昔者華嚴會上。佛説此經之時。聲聞縁覺二乘小聖。諸漏已盡。皆是煩惱斷盡阿羅漢。</ref>。狭義の[[菩薩]]については、この表現はあまりみられない<ref>菩薩の意味の広義化が関係するとみられる。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2%E8%8F%A9%E8%96%A9&mode=search&uop=1 大正新脩大藏經テキストデータベース2007版 『阿羅漢菩薩』]</ref>。
- 出典たる折疑論の原文からの引用部分(脚注内)には、偉大、如来
、仏の語が無い。「大阿羅漢」はあるが。- 原文には佛説という語はあるが、この「佛(仏)」に「偉大なる阿羅漢にして」という形容が付いているようには読めない。「偉大」の語が無いのだから。
- 阿羅漢と佛の関係についても不明である。なぜなら阿羅漢と佛は原文において別々の文に属しているからであり、阿羅漢が属する文が一旦終わっている以上、それとは別の文に出てくる佛という名詞と阿羅漢との関係性は不明である。
- 「形容詞の arhat は応供としての資格を表す尊称であるため、漢訳経典では『偉大なる阿羅漢(にして)仏・如来』と言った表現が出現する。」という文について。文中の「ため」は理由の表示をする趣旨であろう。従ってこの文は、「形容詞の arhat は応供としての資格を表す尊称である」ことが「漢訳経典では『偉大なる阿羅漢(にして)仏・如来』と言った表現が出現する」ことの理由であると主張していることになるが、このような理由の存在を、その出典たる折疑論の原文のどこが主張しているのか不明。このような〈理由設定〉を原文が担っていないなら、この理由設定は執筆者の独断でしかない。脚注内には応供や尊称の語も無い。
- 「こうした表現は声聞や縁覚(独覚:どっかく/辟支仏:びゃくしぶつ)にもみられる」という文について。「こうした表現」というのは声聞や独覚に関しては具体的にどのような表現なのか不明で、どのような表現がみられると折疑論が言っているのかも不明。
- 「狭義の菩薩については、この表現はあまりみられない」および「菩薩の意味の広義化が関係するとみられる」という文について。その出典は大正新脩大蔵経データベースにおける「阿羅漢菩薩」というキーワードの検索結果のみだが、この検索結果のどこがどのように執筆者のこの主張を裏付けるのかについての説明が全くない。--Leonidjp(会話) 2017年6月25日 (日) 05:50 (UTC)
取り消し線で一部訂正↑。--Leonidjp(会話) 2017年6月26日 (月) 07:14 (UTC)
報告 上記6/26から40日ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp(会話) 2017年8月4日 (金) 10:54 (UTC)
- 『偉大なる阿羅漢、仏・如来』と書かれている邦訳経典を私は見た。私も最初は混乱したが、そのうち慣れたほどなので、探そうと思えばいくつも見つかるだろう。なので問題はない。--118.83.146.236 2017年8月5日 (土) 18:18 (UTC)
- 報告 上述のようにIP利用者からの応答がありましたが、ここで指摘されている問題点は解消していません。--Leonidjp(会話) 2017年8月5日 (土) 22:33 (UTC)
- 報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 03:27 (UTC)