ナーホト
ナーホト | |||||
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位置 | |||||
![]() 位置 | |||||
座標 : 北緯50度25分01秒 東経16度09分47秒 / 北緯50.41694度 東経16.16306度 | |||||
行政 | |||||
国 | ![]() | ||||
州 | ![]() | ||||
郡 | ナーホト郡 | ||||
ナーホト | |||||
市長 | ヤン・ビルケ | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
域 | 33.32 km2 | ||||
標高 | 346 m | ||||
人口 | |||||
人口 | (2010年現在) | ||||
域 | 20,760人 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | CET (UTC+1) | ||||
夏時間 | CEST (UTC+2) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.mestonachod.cz |
ナーホト (チェコ語: Náchod [ˈnaːxot]、ドイツ語: Nachod)は、チェコ、フラデツ・クラーロヴェー州の都市。
地理[編集]
ボヘミア東部、メトゥイエ川(エルベ川支流)に面し、ポーランドと国境を接する。E67道路が市内を通過する。
歴史[編集]

ナーホトの名が最初に記されたのは、プラハのコスマス(en)がラテン語で書いた年代記、Chronica Boëmorumにおいてである。文中、ポーランドへの玄関口と記されていた。プラハからポーランドへの古い通商路にあったため、国境地帯を守る目的で1250年代に戦略的要所として城が築かれた。ナーホトの町が築かれたのも同時代とされる。
15世紀のナーホト市民は、市場を開く特権の他に図書館、橋を渡ってくる物資に課税する権利を持っていた。貿易の町としてナーホトは栄え、16世紀半ばには文化が花開いた。しかし1570年と1663年に発生した大火で町の大半が荒廃した。
白山の戦いで敗退した冬王フリードリヒは、ナーホトを通過して落ち延びた。現在、市内のカメニツェ通りにはフリードリヒの乗った馬が残した足跡が表されている。三十年戦争でナーホトはさらに人口を減らした。
普墺戦争中の1866年6月27日、ナーホトの戦いが起こり、プロイセン軍が勝利した。
19世紀、ナーホトはテキスタイル産業で経済復興した。しかし1930年代の大不況、第二次世界大戦で経済は疲弊した。
ナーホト城[編集]
円形の塔と邸宅からなるナーホト城は、13世紀にナーホト出身のフロン家が築いた。1544年に城を購入したジクムント・スミルツキがルネサンス様式で改修した。1632年から、城主である神聖ローマ帝国の将軍オッターヴィオ・ピッコロミーニが城をバロック様式に改造した。
1639年にスウェーデン軍によって破壊されたり、18世紀の嵐で損傷したが、そのつど修繕が行われた。18世紀末まで、ナーホト城は週4度は演劇や音楽会が催される文化の中心であり続けた。
1800年に父ペーター・フォン・ビロンから城を相続したのがザーガン女公ヴィルヘルミーネである。ヴィルヘルミーネの死後ザーガン女公となったパウリーネは、城をナーホト領主オクタヴィオ・フォン・リッペ=ビーステルフェルト家へ売却した。1945年、城はチェコスロバキアの国有となった。現在、城内部を見学することができる。