シャルル・ド・ブロワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
シャルル・ド・ブロワ

シャルル・ド・ブロワCharles de Blois1319年 - 1364年9月29日)は、フランス王国の貴族。シャティヨン家出身でブロワギー1世・ド・シャティヨンとマルグリット・ド・ヴァロワ(ヴァロワ伯シャルルの三女でフィリップ6世の妹)の子。マイエンヌ男爵ギーズ領主であったが、ジャンヌ・ド・パンティエーヴルとの結婚によってパンティエーヴル伯とブルターニュのベリストル(摂政位)にもなった。

1337年6月4日パリにてシャルルはジャンヌと結婚した。ジャンヌはパンティエーヴル伯ギーの娘でブルターニュ公ジャン3世の姪、アルテュール2世の孫娘にあたった。結婚の条件は、シャルル・ド・ブロワが子のないジャン3世の後継者となって公位を継承することだった。

ジャン3世は存命中に自分の後継を明確にしなかったため、1341年の彼の死によって、2派にわかれて競争する23年間におよぶ血なまぐさい戦争が引き起こされた(ブルターニュ継承戦争)。コンフランの裁定により、フィリップ6世は甥シャルルをブルターニュ摂政にしてブルターニュ公であると認定し、彼の忠誠を受け入れた。ほとんどの領主や男爵らが自分たちの主権者の相続人シャルルに対して忠誠を誓わなければならないが、ジャン3世の異母弟でジャンヌの叔父ジャン・ド・モンフォールは自らが公国の継承者だと主張した。

1341年10月、シャルルはノルマンディー公にしてフランス王位継承予定者ジャン(後のジャン2世)と共にジャン・ド・モンフォールに対して公国への権利を主張すべく進軍した。

1344年、シャルルはカンペールを攻略したが、3年後の1347年6月18日、ラ・ロッシュ=デリアンの戦いイングランド軍の捕虜となった。彼がロンドン塔に投獄されている間、妻のジャンヌ・ド・パンティエーヴルがジャンヌ・ド・フランドル(ジャン・ド・モンフォールの妻)との戦いを続けていた。イングランドでほぼ9年間囚われの身であった彼は1356年8月10日に釈放された。釈放にあたって70万フローリンの身代金支払いを約束させられているが、彼が戦死する前に一部の支払いが行われている。

この長い戦いの間に、時のフランス王はブロワ側を支持し、イングランド側はモンフォール側を支持した。1364年9月29日はオーレの戦いで戦死した。

ロンドン塔に投獄されていた約9年間の彼の献身のため、1904年にシャルルはカトリック教会から列福された[1]

子女[編集]

ジャンヌ・ド・パンティエーヴルとの間に以下の子をもうけた。

  • ジャン1世・ド・シャティヨン(1340年 - 1404年) - パンティエーヴル伯
  • ギー - イングランドに人質として送られ、当地で死亡
  • アンリ(1400年没)
  • マリー(1345年 - 1404年) - ルイ1世・ダンジューと結婚
  • マルグリット(1353年没) - 1351年にアングレーム伯シャルル・ド・ラ・セルダと結婚

脚注[編集]

  1. ^ La demande de canonisation fut un échec (1376). C'était pour une grande part une action à motifs politiques, Auray 1364, Laurence Moal, PUR. Certains historiens considéraient Blois comme un bigot, Henry Martin par exemple.
先代:
ジャン3世
ブルターニュ
Blason region fr Bretagne.svg
ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと共同統治
ジャン・ド・モンフォールと競合
1341年 - 1364年
次代:
ジャン4世