サン=ミシェル=エ=シャンヴォー

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Saint-Michel-et-Chanveaux
Saint Michel Eglise.JPG
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏Blason région fr Pays-de-la-Loire.svg
(département) メーヌ=エ=ロワール県Blason département fr Maine-et-Loire.svg
(arrondissement) スグレ郡
小郡 (canton) スグレ小郡
INSEEコード 49309
郵便番号 49420
市長任期 マリー・ジョー・アマール[1][2]
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes de la région de Pouancé-Combrée
人口動態
人口 409人
2013年
人口密度 15人/km2
住民の呼称 Michelois, Micheloise
地理
座標 北緯47度40分52秒 西経1度07分45秒 / 北緯47.6811111111度 西経1.12916666667度 / 47.6811111111; -1.12916666667座標: 北緯47度40分52秒 西経1度07分45秒 / 北緯47.6811111111度 西経1.12916666667度 / 47.6811111111; -1.12916666667
標高 平均:m
最低:39m
最高:105m
面積 27.67km2
Saint-Michel-et-Chanveauxの位置(フランス内)
Saint-Michel-et-Chanveaux
Saint-Michel-et-Chanveaux
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サン=ミシェル=エ=シャンヴォーSaint-Michel-et-Chanveaux)は、フランスペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県の旧コミューン

先史時代以来定住人口があり、人や物が交差する場所だった。1790年に、サン・ミシェル・デュ・ボワとシャンヴォーの2つのコミューンが合併して誕生した[3]。かつてはブルターニュ公国と対峙するアンジューの城代が治める地であり、フランス革命が起きるとシュアヌリ(fr、ブルターニュ、メーヌアンジューノルマンディーで発生した王党派と共和国軍による内戦)の中心地となり、コミューンは共和国軍とシュアン(上記の地方でゲリラ戦で戦った武装勢力)の戦いの舞台となった。19世紀から20世紀には、農村からの大きな人口流出を経験した。主な経済活動は農業と畜産である。

2016年12月15日、周辺の9つのコミューンと合併し、コミューン・ヌーヴェル(fr)のオンブレ=ダンジューとなった。

地理[編集]

高アンジュー地方にあり、プアンセとは9km、スグレとは25km離れている。

サン=ミシェル=エ=シャンヴォーはスグレン地方の景観の一部である、丘陵地帯が特徴である。起伏は東西の方向に向き、網状のボカージュ(生け垣で囲った畑)は谷に降りていくにしたがって密度が増す[4]。南西から北東に向けて、コミューンをニンフ川が横切る。ニンフ川はノエレでヴェルゼ川と合流する。

地質学的には、コミューンはアルモリカ山塊から伸びる、シルル紀に生まれた片岩の地盤上に位置する。

高アンジュー地方の気候は、穏やかなアンジューと呼ばれるのが特徴である[5]。メーヌ=エ=ロワール県は海洋性気候と、トゥーレーヌの大陸性気候との過渡地帯にあたるため、冬は穏やかで夏は快適である[6]

歴史[編集]

コミューンにはピエールフリトのメンヒルがあり、新石器時代の人の定住を表している。このメンヒルは県で3番目の高さである。また、7つの石斧や、多くの細石器が見つかっている[3]

サン・ミシェル・デュ・ボワは、アンジューの城代区の中で最古の1つであった。城がこの地に建てられていたが、1422年にはおそらくイングランド軍に包囲され、ブルターニュとフランスが戦争していた時代に廃墟となってしまった[3]

革命勃発当時、領主はルイ・マリー・ド・ブルモン(のちのフランス元帥ルイ・オギュスト・ド・ブルモンの父)であった。

1794年8月31日、王党派と共和国軍の戦いが起きた。ドゥカーン将軍率いる350人の共和国軍は、サラザンが指揮するライフルで武装した500人のシュアン、熊手や反り返った大鎌で武装した300人の農民と衝突した。サラザンは池の底に沈められた[3]

革命時代にサン・ミシェル・デュ・ボワの主任司祭だったのはルネ・オーバン・ルモニエであった。彼は宣誓を拒否したため、神学校に投獄された。聖職者がスペインに強制送還されることになると、彼はナントに送られた。しかし送還される前の1792年9月、彼は病を得、ナントのカルメル会修道院に閉じ込められたのである。彼はナントの聖職者たちと運命を共にし、1793年11月16日、他の高齢の聖職者たちとともに、ナントで溺死刑にされた[3]

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2008年 2013年
595 559 496 424 421 364 339 409

参照元:1962年から1999年まで人口の2倍カウントなし。1999年までEHESS/Cassini[7]、2004年以降INSEE[8][9]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Ouest-France, Marie-Jo Hamard reconduite à la tête de la mairie, article du 31 mars 2014
  2. ^ Préfecture de Maine-et-Loire, Liste des maires élus en 2014, document du 23 avril 2014
  3. ^ a b c d e Dictionnaire historique, géographie et biographique du Maine-et-Loire, Célestin Port, éd. 1996
  4. ^ Atlas des paysages du Maine-et-Loire, 2003, Édition le Polygraphe, p. 164
  5. ^ Douceur angevine
  6. ^ Comité départemental météorologique
  7. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=33700
  8. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  9. ^ http://www.insee.fr