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コンスタニェヴィツァ・ナ・クルキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタニェヴィツァ・ナ・クルキ
Kostanjevica na Krki
コンスタニェヴィツァ修道院
コンスタニェヴィツァ修道院
コンスタニェヴィツァ・ナ・クルキの市章
市章
位置
の位置図
座標 : 北緯45度51分 東経15度25分 / 北緯45.850度 東経15.417度 / 45.850; 15.417
行政
スロベニアの旗 スロベニア
  ドレンスカ地方
  スポドニェポサヴスカ地域
 市 コンスタニェヴィツァ・ナ・クルキ
人口
人口 (2008年現在)
  市域 2,480人
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号 8311
ナンバープレート KK
公式ウェブサイト : kostanjevica.si

コンスタニェヴィツァ・ナ・クルキ(スロベニア語: Kostanjevica na Krkiドイツ語: Landstraß)またはコンスタニェヴゥツァ・オブ・クルキ(スロベニア語: Kostanjevica ob Krki)はスロベニアの都市およびそれを中心とした基礎自治体で、伝統的にドレンスカ地方に含まれる。今日ではスポドニェポサヴスカ地域に含まれている[1]。町はゴリャンツィ丘の北麓に位置しクロアチアとの国境に近く、町全体はクルカ川の中島で「低カルニオラのヴェネツィア」(Dolenjske Benetke)としてスロベニアでは推奨されている。

歴史

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町は文化的、歴史的遺産として保護されている[2]。コンスタニェヴゥツァはこの地域では一番古い歴史がある町で、13世紀初めケルンテン公国の君主ベルンハート・フォン・シュパンハイム (enによってカルニオラ辺境伯シトー会のフォンス・ザンクタ・マリア修道院(Fons Sanctae Mariae)が設立され、アクレイア総大司教 (enメラニア公国 (enに対抗した。

コンスタニヴィツァの集落が初めて言及されたのは1210年中世ドイツ都市法 (enで、市場町としての権利を1249年に受けている。中世後期、ハプスブルク家オーストリア大公国により保持されカルニオラ公国の重要な交易の中心となった。オスマン帝国のヨーロッパへの侵入 (enにより15世紀と16世紀にいく度か侵害されている。17世紀には集落はほとんどが廃墟となったが、町の地位は維持された。2000年スロベニア下院により市としての地位が認められた。[3]

1945年にクラコヴォの森で大量殺戮が行われた。スロベニアの隠された集団墓地委員会 (en第二次世界大戦時のスロベニアパルチザン (enの犠牲者の集団墓地を発見している。[4]

脚注

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  1. ^ Kostanjevica na Krki municipal site
  2. ^ Odlok o razglasitvi mesta Kostanjevice na Krki za kulturni in zgodovinski spomenik (Krško)” [Order proclaiming the city of Kostanjevica na Krki as a cultural and historical monument (Krško)] (スロベニア語). Official Gazette. Municipality of Krško (1997年). 2019年1月2日閲覧。
  3. ^ Žagar (2007-10) (Slovene). Lokalna samouprava: organizacija in funkcija [Local Self-Government: Organisation and Function] (5th ed.). Administration Academy, Ministry of Public Administration. p. 28. オリジナルの2011-07-26時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110726190038/www.mju.gov.si/fileadmin/mju.gov.si/pageuploads/mju_dokumenti/UA/Irena/Microsoft_Word_-_lekt.Zagar-UA-LS._januar_08.pdf 
  4. ^ Uz granicu kod Dobove Slovenci otkopavaju kosti 6000 Hrvata, Slobodna Dalmacija

外部リンク

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