クィントゥス・ミヌキウス・テルムス

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クィントゥス・ミヌキウス・テルムス
Q. Minucius Q. f. L. n. Thermus
出生 不明
死没 紀元前188年
出身階級 プレブス
氏族 ミヌキウス氏族
官職 護民官(紀元前201年)
按察官(紀元前198年)
法務官(紀元前196年)
執政官(紀元前193年)
前執政官(紀元前192年 - 190年)
指揮した戦争 ローマ・ヒスパニア戦争
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クィントゥス・ミヌキウス・テルムス(Quintus Minucius Thermus、- 紀元前188年)は、共和政ローマプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前193年執政官(コンスル)を務めた。

生涯[編集]

出自[編集]

テルムスはプレブスであるミヌキウス氏族の出身である。ミヌキウス氏族の最初の執政官は紀元前305年ティベリウス・ミヌキウス・アウグリヌスであった[1]。カピトリヌスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、祖父のプラエノーメンはルキウスであった[2]

経歴[編集]

その政治キャリアを通じて、テムルスはプブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌス、大スキピオ)の派閥に属していた[3]。テムルスが最初に記録に現れるのは、第二次ポエニ戦争終盤の紀元前202年であり、トリブヌス・ミリトゥム(高級士官)としてスキピオのアフリカ遠征軍に加わっていた[4]。二度の戦闘でテムルスの活躍が触れられている[3]。一度目はハンニバル軍に向かうカルタゴの補給部隊を拿捕した際で、敵兵4,000を殺害し4,000を捕虜としている[5][6]。また、第二次ポエニ戦争を決定付けたザマの戦いでは、テムルスは分遣隊を率いてローマ軍左翼を守り、数に勝るカルタゴ軍を押し戻した[7]

紀元前201年、テムルスはローマに戻り護民官に就任した[8]。この年の執政官の一人であったグナエウス・コルネリウス・レントゥルスは、自身が最終的な勝利の栄誉を手にするためにスキピオをアフリカから引き上げさせようとしたが、テムルスと同僚護民官のマニウス・アキリウス・グラブリオはこれを阻止した[9][10]。紀元前198年にアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任[11]。紀元前197年にはカンパニアの植民地建設(プテオリウォルトゥルヌム、リテル、サレルヌム、ブクセントゥム)のための三人委員会の一人に選ばれた[12]紀元前196年法務官(プラエトル)に就任した[13]。何れの職においても、同僚はスキピオ派のティベリウス・センプロニウス・ロングスであった[3]

当時のプラエトルは、ローマに在任する2名の首都プラエトルと、属州総督を務めるプラエトルがあったが、テムルスは属州総督としてヒスパニア・キテリオル(近ヒスパニア)に赴任した。前任者のガイウス・センプロニウス・トゥディタヌスは現地部族との戦闘に敗北し、瀕死の重症を負っていた。テムルスは属州の軍備を1個ローマ軍団と同盟国軍(アウクシリア)9,000で補充・強化し、この兵力をもってトゥルダで勝利した。ティトゥス・リウィウスの簡素な記述から、このヒスパニアの反乱はブダルとベサディンという人物に率いられており、ブダルは捕虜となっている。ほかに12,000のヒスパニア兵が殺された[14][15]。古代の歴史家が戦死者数を誇張しているとしても、この勝利は元老院がテムルスに凱旋式の実施を認めるに十分であり、ローマに戻った紀元前195年に凱旋式を実施している[16]

テムルスはその後もカンパニア植民地の建設に従事し、これは紀元前194年に完了した。この年の執政官はスキピオ・アフリカヌスとテルムスの古くからの同僚であるティベリウス・センプロニウス・ロングスであった。ロングスからの支援もあり、テムルスは翌紀元前193年に執政官に就任した。同僚執政官はパトリキ(貴族)出身のルキウス・コルネリウス・メルラであった[17]。その後、紀元前197年と同じことが繰り返された。リグリア軍は40,000の兵力でピサを包囲した。テルムスはピサの支援に向かった。ローマ軍の数的劣勢のため、テムルスは野戦を挑まなかった。この作戦の途中でローマ軍は2度の困難に直面したが(一度はリグリア軍がローマ軍野営地を包囲したとき、もう一度は行軍中のローマ軍が奇襲されたとき)、敗北は免れた。テムルスのインペリウム(軍事指揮権)は2度延長され、紀元前191年まで軍を指揮した。しかしテルムスは特筆すべき成功を収めることはできなかった。紀元前190年にはリグリア人との講和に成功し、彼の軍をプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカに引き渡した[18]

ローマに戻ると、テムルスは元老院の再度の凱旋式の実施を求めた。アイトーリアからもどったばかりのマニウス・アキリウス・グラブリオ(スキピオ派でテムルスの同僚)にも同様の名誉を求めた。元老院はグラブリオの凱旋式は認めたが、テムルスの要求は拒否した。スキピオの政敵である大カトが演説し、彼の勝利は虚偽であり、同盟国を恣意的に取り扱ったと非難した。この演説が記録された断片が現在でも二つ残っている。この結果、テルムスの凱旋式は認められなかった。現在の歴史学者は、紀元前189年の監察官(ケンソル)選挙にテムルスを立候補させないために、カトはこの攻撃を行ったと考えている[19]

紀元前189年、テムルスは元老院から10人委員会の委員に選ばれ、ローマ・シリア戦争後の小アジアでの国境を確定させる役を担った[20]前執政官グナエウス・マンリウス・ウルソと共に、10人委員会はアンティオコス3世との講和を結んだ。講和条件はタウロス以西のアジアを放棄し、ローマに賠償金を支払い、戦象をローマに引渡し、保有する軍艦を10隻に制限され、人質を出すことであった(アパメイアの和約[21]。テムルスはウルソの代理としてシリアへ赴き、アンティオコス3世に条約を批准させた[22]。紀元前188年、テムルスは他の10人委員会の委員と共にローマに向かったが、途中トラキアで地元の部族に襲撃され、テムルスは死亡した[23]

子孫[編集]

おそらくは[23] テムルスの息子はルキウス・ミヌキスス・テムルスであり、紀元前182年紀元前178年レガトゥス(軍団副官)を務め、紀元前154年にはエジプトへ外交使節として派遣されている[24]

脚注[編集]

  1. ^ Münzer F. "Minucius", 1932, s. 1937.
  2. ^ カピトリヌスのファスティ
  3. ^ a b c Münzer F. "Minucius 65", 1932 , s. 1967.
  4. ^ Broughton, 1951, p. 318.
  5. ^ アッピアノス『ローマ史:ポエニ戦争』、36.
  6. ^ フロンティヌス『戦略論』、I, 8, 10.
  7. ^ アッピアノス『ローマ史:ポエニ戦争』、44.
  8. ^ Broughton, 1951, p. 320.
  9. ^ リウィウスローマ建国史』、XXX, 40, 9.
  10. ^ Trukhina, 1986, p. 85.
  11. ^ Broughton, 1951, p. 330.
  12. ^ Broughton, 1951, p. 334.
  13. ^ Broughton, 1951, p. 335
  14. ^ リウィウスローマ建国史』、XXXIII, 44, 4.
  15. ^ Kvashnin, 2004, p. 49.
  16. ^ Münzer F. "Minucius 65", s. 1967-1968.
  17. ^ Broughton, 1951, p. 342.
  18. ^ Münzer F. "Minucius 65", s. 1968-1970.
  19. ^ Kvashnin, 2004, p. 59; 60-61.
  20. ^ Broughton, 1951, p. 363.
  21. ^ Klimov, 2010, p. 93.
  22. ^ ポリュビオス歴史』、XXI, 46.
  23. ^ a b Münzer F. "Minucius 65", s. 1971
  24. ^ Münzer F. "Minucius 63", s. 1966.

参考資料[編集]

古代の資料[編集]

研究書[編集]

  • Kvashnin V. "State and legal activity of Marcus Portius Cato the Elder." - Vologda: Russia, 2004. - 132 p.
  • Klimov O. "The Pergamum Kingdom. Problems of political history and state structure." - St. Petersburg. : Nestor-History, 2010. - 400 with. - ISBN 978-5-98187-475-8 .
  • Trukhina N. "Politics and politics of the "golden age" of the Roman Republic." - M .: Publishing house of the Moscow State University, 1986. - 184 p.
  • Broughton R. "Magistrates of the Roman Republic." - New York, 1951. - Vol. 1. - P. 600.
  • Münzer F. "Minucius" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1932. - Bd. XV. - Kol. 1937-1939.
  • Münzer F. "Minucius 63" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1932. - Bd. XV. - Kol. 1966.
  • Münzer F. "Minucius 65" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1932. - Bd. XV. - Kol. 1967-1971.

関連項目[編集]

公職
先代:
スキピオ・アフリカヌス II
ティベリウス・センプロニウス・ロングス
執政官
同僚:ルキウス・コルネリウス・メルラ
紀元前193年
次代:
ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス