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エドウィン・ランシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サー
エドウィン・ランシア
Edwin Landseer
エドウィン・ランシア『目利きたち:画家と二匹の犬の肖像』1865年、ロイヤル・コレクション
生誕 1802年3月7日
イギリスの旗 イギリスロンドン
死没 (1873-10-01) 1873年10月1日(71歳没)
イギリスの旗 イギリスロンドン
墓地 セント・ポール大聖堂
国籍 イギリス
教育 ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ
著名な実績 動物画
代表作 『老羊飼いの喪主』(1837年)
『威厳と生意気』(1839年)
『谷間の君主』(1851年)
ジョン・ランシア
選出 ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ
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サー・エドウィン・ヘンリー・ランシア(Sir Edwin Henry Landseer RA, 1802年3月7日 - 1873年10月1日)は、19世紀イギリス画家。日本語ではランドシーアランドシアと表記されることもある[注釈 1]

彼の名は馬や犬や牡鹿などを描いた動物画によってよく知られているが、ランシアの最もよく知られている作品はロンドンのトラファルガー広場にあるライオンの彫刻である。

トラファルガー広場にあるランシア作のライオン像

生涯

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誕生、家族について(1800年代)

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1802年3月7日、ロンドンのクイーン・アン・ストリート(のちのフォーリー・ストリート)で生まれた。父のジョン・ランシアは版画家である。母のジェーン・ポッツはジョシュア・レノルズの『田舎家の人々(The Cottagers)』(1788年)[1]のモデルの一人を務めたことがある。エドウィンは7人兄弟の4番目の子どもだった。長兄のトマス英語版は長じて版画家に、次兄のチャールズは画家に、妹のジェシカ英語版とエマはミニアチュール画家となる。ジェシカは後年、兄弟たちにとっておばにあたるバーバラ・ポッツとともに、エドウィンの身辺の世話の役割も担うこととなる[2][3][4]

「神童」と呼ばれた少年時代(1810年代)

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彼の父によれば、エドウィン・ランシアは物心がついた頃から畑や牧場で動物を描いていたという[5][6]。また、ロンドン塔エクセター・チェンジ英語版のメナジェリー[注釈 2]に赴いて動物を描くこともあった[7]1815年、ソサエティ・オブ・アーツ(のちのロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ)に狩人を描いたドローイングを出品して銀メダルを授与された。同年、ロイヤル・アカデミーの年次展覧会に名誉出展者として、ロバのドローイングと、初期のパトロンであるW・W・シンプソンの飼い犬の頭部のドローイングを出品した[8]。ランシアは芸術的才能が早くから認められたある種の神童だった[注釈 3]

同じ1815年、ランシアは2人の兄とともに論争好きな歴史画家ベンジャミン・ロバート・ヘイドンらに師事した[9][10]。ヘイドンは動物筋組織や骨格の構造を完全に理解するために若いランシアが動物の解剖を行うのを奨励したという。ヘイドンの『キリストのイェルサレム入城(Christ's Entry into Jerusalem)』(1814-20年)に描かれたロバは、ランシアが手掛けたといわれる[11]

1816年、ランシアはロイヤル・アカデミー附属の美術学校に入学した[12]。ここではヘンリー・フュースリーらの指導を受けた[13][14]。ランシアより3年早く入学していた友人のチャールズ・ロバート・レスリーは彼について、フュースリーの「賢明なる放任(wise neglect)」[15]の恩恵に与った一人だと述べている。

ハイランド愛好、ロイヤル・アカデミーにおける出世(1820年代)

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1824年、ランシアは初めてスコットランドハイランド地方を旅行した[16][17]。彼はC. R. レスリーとともに船でスカボローまで向かい、そこからは陸路でスコットランドへ向かった[18]。ランシアは単独でブレア・アソルのアソル公爵の邸宅に滞在し、『グレン・ティルトにおける牡鹿の死(Death of the Stag in Glen Tilt)』(1824-30年)の準備として、公爵の猟場管理人やアカシカを習作に描いた[19]。また、詩人・小説家のウォルター・スコットの住まいであるアボッツフォード邸英語版を訪問した[16][17]。ランシアとスコットは以後親しく交流し、画家は『アボッツフォード邸にて(A Scene at Abbotsford)』(1827年)でスコットの愛犬のメイダ英語版を描いたり[20]、のちにスコットの作品集である「ウェイヴァリー叢書(Waverley novels)」(1829-33年)の挿絵の一部を手掛けたりしている[21]

1825年から26年にかけては、数年前から親しく交流していた[注釈 4]第6代ベッドフォード公爵からの依頼で、イングランドとスコットランドの国境地帯を舞台とする中世の詩『チェヴィー・チェイスのバラッド(The Ballad of Chevy Chase)』の一場面を主題とした『チェヴィー・チェイスの狩猟(The Hunting of Chevy Chase)』(1825-26年)を制作した[22][23]。その他にも、『鹿狩りから帰還するハイランド人たち(Highlanders Returning from Deerstalking)』(1827年)は第3代ノーサンバーランド公爵に、『ハイランドの狩猟(Sport in the Highlands)』(制作年不詳)は第4代ゴードン公爵に、『ハイランドの密造ウイスキー蒸留所(The Illicit Whiskey Still in the Highlands)』(1826-29年)は初代ウェリントン公爵に所有されるなど、ハイランド地方を主題とした作品群が貴族たちから好評を博した[24]

このように、ランシアはハイランド地方に魅了され、毎年のように来訪して狩猟を楽しんだうえ、この土地から数多くの作品の着想を得た。すでに挙げた作品のほか、画業後半の『谷間の君主(The Monarch of the Glen)』(1851年)、『ハイランドの洪水(Flood in the Highlands)』(1860年)、『荒地の地代集金日(Rent Day in the Wilderness)』(1855-68年)などもそれに含まれる。また、後述するように、ランシアは1830年代半ばにヴィクトリア女王の知遇を得ることとなるが、彼らを結びつけたのもスコットランド、とりわけハイランド地方の風土への共感だった[注釈 5]

1825年、ランシアは、ロンドンのリッスン・グローブ英語版の角、セント・ジョンズ・ウッド英語版・ロード1番地に転居する[25][26]

1826年、おそらくロイヤル・アカデミーの年次展覧会に出品した『チェヴィー・チェイスの狩猟』が評価されたこともあって、ランシアはアカデミーの準会員に選出された[12]。同じ機会にアカデミーの準会員に選出されるべく各方面に働きかけたものの落選したヘイドンは、これを契機にランシアとの関係を悪化させていく[27]

王室、貴族、新興中産階級によるパトロネージ(1830年代)

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1831年、ロイヤル・アカデミーの正会員に選出された[12]。ディプロマとして提出した作品は『忠実な猟犬(The Faithful Hound)』(1830年頃)である。

1836年、初めて王室から作品を依頼される。それは、ケント公爵夫人から娘のヴィクトリア王女(のちのヴィクトリア女王)への誕生日の贈り物として、彼女の愛犬のダッシュ英語版の肖像画を描いてほしいというものであった。かくして制作されたのが『ダッシュ(Dash)』(1836年)である[28]。これを皮切りに、ランシアは王室からの注文を数多く受けることとなる。ヴィクトリア女王は、自身が即位した年でもある1837年、ランシアと初めて対面した際の印象について「気取りがなく楽しい人で、髪は金髪……とても若く見える」[29]と日記に記している。さらに画家は、女王夫妻にエッチングの手ほどきをしたという[30]

ランシアには多くの貴族のパトロンがいた。すでに言及した人物のほか、第2代アバコーン侯爵(1868年以降は初代アバコーン公爵)夫妻、すなわち第6代ベッドフォード公爵の娘ルイーザ英語版とその夫ジェームズや、『古き良き時代のボルトン・アビー(Bolton Abbey in the Olden Time)』(1834年)を注文した第6代デヴォンシャー公爵英語版、『鷹狩りからの帰還(Return from Hawking)』(1837年)を注文した初代エルズミア伯爵英語版、『かわうそ狩り(The Otter Hunt)』(1844年)を注文した第4代アバディーン伯爵、そして首相を務めた政治家のサー・ロバート・ピールらが挙げられる。また、パトロンではなかったが、フランス出身でブレッシントン伯爵夫人英語版の継息子でありアマチュア画家でもあったドルセー伯爵英語版とは、最も親しい友人同士だった。

当時有力だった新興中産階級のコレクターも、ランシアの優れた作品を所有した。ロバート・ヴァーノン英語版は『上流生活(High Life)』『下流生活(Low Life)』(対作品、ともに1829年)や『ハイランドの音楽(Highland Music)』(1829年)などを所有していた。ヴァーノンのコレクションだったものはテート・ブリテンに所蔵されている[31]。また、ジョン・シープシャンクス英語版は『いばる小役人(A Jack in Office)』(1833年頃)や『老羊飼いの喪主(The Old Shepherd's Chief Mourner)』(1837年)などを所有していた。シープシャンクスのコレクションだったものはヴィクトリア&アルバート博物館に所蔵されている[32]。さらに、画家の友人でもあった薬学者のジェイコブ・ベルは、自身の愛犬2匹が描かれた『威厳と生意気(Dignity and Impudence)』(1839年)ほか数点の作品を所有していた[33][34]1847年にも、イザムバード・キングダム・ブルネルが自邸に設けるシェイクスピア・ギャラリーのために、ランシアに『「夏の夜の夢」の一場面、タイタニアとボトム(Scene from A Midsummer Night's Dream. Titania and Bottom)』(1848-51年)を依頼している[35]

ランシアが1837年のロイヤル・アカデミーの年次展覧会に出品した『老羊飼いの喪主』は、のちに美術批評家のジョン・ラスキンによって「現代における最も完全な詩や絵画(両方の語を同意語として用いる)の一つ」[36]と称賛された。

『老羊飼いの喪主』(1837年)

絶頂期における心身の不調(1840年代)

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1840年頃から、ランシアは心身の不調に悩まされるようになる。母の死去、ロイヤル・アカデミーの展示委員会(Hanging Committee)の任務による疲労、友人であった第6代ベッドフォード公爵の弟ウィリアム・ラッセル卿英語版殺害事件、ベッドフォード公爵夫人英語版とのロマンスの終焉[注釈 6]など、先行研究ではさまざまな要因が推測されている[37]

1840年、ランシアは友人のジェイコブ・ベルに付き添われ、おそらく生涯で唯一の海外旅行をする。その目的は、心身の不調を受けての療養だったと考えられる。ロンドンを出発し、ベルギーからライン川沿いに、ドイツケルン、ついでスイスジュネーブへ赴き、フランスパリを経由して帰国するという旅程であった[38]。滞在地では現地の家畜などをスケッチした[注釈 7]

1841年、ランシアは王室の集団肖像画英語版『ウィンザー宮近況(Windsor Castle in modern times)』(1841-45年)の制作に着手する。本作品は完成までに長い時間を要しており、ヴィクトリア女王が1843年8月時点で日記に「ほぼ完成」[39]と記してから実際に完成するまでに、さらに2年の歳月が費やされている[40]。しかしその後も注文制作は続き、アルバート公の愛犬イーオスの肖像画『イーオス(Eos)』(1841年)をはじめ、数多くの作品が生み出された。

『ウィンザー宮近況』(1841年-1845年)

このように、心身の不調に陥ったことで、制作の進度が遅くなったり未完成のままの作品が増えたりすることこそあったものの、作品制作の量と質には決定的な影響はなかった[41]。先述した『ウィンザー宮近況』をはじめ、『法のもとでの命令(Laying Down the Law)』(1840年)、『我が家にまさる処なし(There's No Place Like Home)』(1842年)、『蹄打ち(Shoeing)』(1844年)などの作品を制作していった。

ランシアは、スコットランドに滞在する王室の集団肖像画も制作している。それが『ラガン湖でスケッチをするヴィクトリア女王(Queen Victoria Sketching at Loch Laggan)』(1847年)や、『丘と湖における王家の狩猟、またはミュイック湖に上陸するヴィクトリア女王(Royal Sports on Hill and Loch, or Queen Victoria landing at Loch Muick)』(1850年)[注釈 8]である。そのような功績が評価され、彼は1850年ナイトに叙せられることとなる。

おもに1840年代、ランシアは作家のチャールズ・ディケンズと交流した[42]。ディケンズの『ドンビー父子(Dombey and Son)』(1846-48年)にはディオゲネスという名前の犬が登場するが、これがランシアの『アレクサンドロスとディオゲネス(Alexander and Diogenes)』(1848年)の着想源となった可能性がある[43]

ランシアはヴィクトリア朝時代のイギリスで絶大な人気を誇り、動物画家としての名声は比類のないものであった[44]。 彼の名声の多く、そして収入の多くは、彼の兄トマスなどの版画家による複製版画の出版がもたらしたものであった[45]。より具体的には、1840年代における年収の半分程度かそれ以上が、版画化にあたっての著作権使用料による収入であったという[注釈 9]。また、『谷間の君主』の原画作品は88ギニーで購入されたのに対し、同作品の版画化の著作権使用料(625枚分)は500ギニーだったとの記録もある[46]

国内外における名声の獲得、そして晩年へ(1850~60年代)

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先述したように、1850年、ランシアはナイトに叙せられる。

1851年、ランシアは数年前に注文されていた『谷間の君主(The Monarch of the Glen)』(1851年)を完成させる。この作品は当初、英国国会議事堂貴族院の休憩室に飾るための、狩猟の場面を描いた三連作のうちの一点として構想されたものの、この計画は頓挫した。しかし『谷間の君主』はすでに制作に着手されていたため、単体の作品として仕上げられ、個人によって買い上げられた[47][48][注釈 10]

『谷間の君主』(1851年)

1855年に開催されたパリ万国博覧会の国際美術展において、ランシアは、9点の絵画と、彼の作品に基づいた約29点の複製版画を出品し、最高賞の「グラン・メダイユ・ドヌール」を受賞した[49][50]。他の受賞者には、ウジェーヌ・ドラクロワドミニク・アングルオラース・ヴェルネといった画家たちが含まれていた[51]。この出来事は、ランシアが同時代において他のヨーロッパ諸国にも高く評価されていた一つの証左といえるだろう。

1858年、ランシアは、トラファルガー広場ネルソン記念柱の礎に設置する4体のライオン像の制作依頼を受ける[52][53]。しかし、当初は彫刻家のトマス・ミルンズ英語版への依頼だったのにもかかわらず、何らかの事情によりそれがランシアへ回ってきたという経緯があった。このような経緯に加え、ランシアはそれ以前に彫刻作品を制作した経験がほとんどなかったためにこの件は物議を醸したようであるが、画家はライオンの観察やその死体の解剖を通して研究を重ねた[54][55]1866年末、4体のライオン像が完成する。それらは、制作に協力していた彫刻家のカルロ・マロケッティ男爵によって鋳造された。そして1867年、トラファルガー広場に設置された[53]

ジョン・バレンタイン『工房のサー・エドウィン・ランシア』(1865年頃)

ランシアの晩年の作品のいくつかは、たとえば『ハイランドの洪水(Flood in the Highlands)』(1860年)や『計画は人にあり、決裁は神にあり(Man Proposes, God Disposes)』(1864年)のように、悲観的な色合いを帯びている[44]。後者の作品では、1845年のフランクリン遠征の悲惨な運命が主題となっており、二頭のホッキョクグマが犠牲者の骨やその他の残骸をもてあそぶ様子が描かれている[56][57]

1866年にロイヤル・アカデミー会長に選出されるが、彼は健康上の理由でこれを固辞している[12]。代わりに会長に就任したのはフランシス・グラントであった[58]

最晩年、死去(1870年代)

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ランシアは30代の後半に神経衰弱に罹患、没するまで心身の不調に苦しみ、それを紛らわすためアルコールと薬物に頼り、ますます悪化するという悪循環を繰り返すことになる。特に晩年のランシアは精神の安定を大きく欠き、1872年7月には彼の家族の申し出によって狂気に陥ったと宣告された[59][60]

1873年10月1日、ランシアの訃報はイギリス全土に伝えられた。葬儀の日にはロンドン各地で半旗が掲げられ、店や住宅のブラインドは閉じられ、トラファルガー広場ネルソン記念柱を囲むランシア作の青銅製ライオン像には喪章が掛けられた。そして、大群衆は彼の葬列が通るのを見るために通りに立ち並んだ。 ランシアはロンドンのセント・ポール大聖堂に葬られた[61][62]

死後

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ランシアは亡くなる際、3点の未完成の作品を残していた。『かわうそ探し(Finding the Otter)』、『ネル・グウェン(Nell Gwynne)』、『死せる牡鹿(The Dead Buck)』がアトリエのイーゼルの上に置かれていた。彼は遺言として、友人のジョン・エヴァレット・ミレイにそれらを完成させるよう依頼し、ミレイはそれを遂行した[63]

1876年、シャドウェルのウルフ社によって275ポンドの費用がかけられて建造された全長30フィートの転覆防止構造の救命艇が、王立救命艇協会に寄贈され、リンカンシャーのチャペル救命艇基地に配備された。ジェニー・ランシアの資金提供により建造されたこの救命艇は、彼女の亡き兄弟を偲んで「ランシア」と命名された[64]

彼の作品は、ロンドンのロイヤル・コレクションテート・ブリテンヴィクトリア&アルバート博物館ウォレス・コレクション、およびケンウッド・ハウスなどに収蔵されている。

エピソード

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同時代

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  • ランシアは、犬を描かせられれば右に出るものがいないといわれていた。彼は白黒まだら模様のニューファンドランド犬を好んで描いた。『ライオン:一頭のニューファンドランド犬(Lion: A Newfoundland Dog)』(1824年)や『救出終了』(1827年)、『動物愛護協会の著名な一員(A Distinguished Member of the Humane Society)』(1838年)、『救出成功(Saved)』(1856年)などがその例である。現在、白黒まだら模様のニューファンドランド犬は彼にちなんで「ランドシーア」の名で呼ばれることがある[65]
『動物愛護協会の著名な一員』(1838年)
  • ランシアは両利きであるという噂があった。ある晩のパーティーにて、ある女性が「一度に二つのものを描いた人はいない」と発言をしたところ、彼は即座に、片手で角をもつ鹿の横顔を、もう片方の手で馬の横顔を同時に描き上げたという[66]
  • イギリスの建築家エドウィン・ランシア・ラッチェンス(Edwin Landseer Lutyens, 1869-1944年)の名前は、ランシアにちなんで命名された。

後世

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おもな作品

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  • 『チェヴィー・チェイスの狩猟(The Hunting of Chevy Chase)』1825-1826年
  • 『上流生活(High Life)』『下流生活(Low Life)』(対作品)1829年
  • 『老羊飼いの喪主(The Old Shepherd's Chief Mourner)』1837年
  • 『威厳と生意気(Dignity and Impudence)』1839年
  • 『ウィンザー宮近況(Windsor Castle in Modern Times)』1841年-1845年
  • 『谷間の君主(The Monarch of the Glen)』1851年
  • 『計画は人にあり、決裁は神にあり(Man Proposes, God Disposes)』 1864年

ギャラリー

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参考文献

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一次資料

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  1. Algernon Graves. Catalogue of the Works of Sir Edwin Landseer, RA. Exhibition catalogue. London: Royal Academy, Winter 1874
  2. J.D. "Studies and Sketches by Sir Edwin Landseer, R.A." Art-Journal (1875): 1-4, 33-36, 65-68, 97-100, 129-132, 161-164, 193-196, 225-238, 257-260, 289-292, 353-356, 321-324 https://www.jstor.org/stable/20568607 ほか - 美術雑誌の特集。習作と素描の紹介
  3. William Cosmo Monkhouse. The Works of Sir Edwin Landseer. London, 1879-1880
  4. Frederick G. Stephens. Sir Edwin Landseer. London, 1895
  5. James A. Manson. Sir Edwin Landseer, RA. London, 1902

日本語文献

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  1. 高橋達史、高橋裕子「女王陛下の動物画家 エドウィン・ランシア《上流生活》《下流生活》」『ヴィクトリア朝万華鏡』新潮社、1993年、pp. 207-216
  2. 高橋裕子『イギリス美術』岩波書店、1998年
  3. トゥレヴァー・R・プリングル「歴史の剥奪:ランドシーア、ヴィクトリア女王、そしてハイランド神話」D・コスグローブ、S・ダニエルス共編、千田稔、内田忠賢監訳『風景の図像学』地人書房、2001年、pp. 213-235 - 外国語文献4の第5章を日本語訳したもの

外国語文献

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  1. Basil Taylor, Animal Painting in England: From Barlow to Landseer. Penguin Books, 1955
  2. Campbell Lennie, Landseer: The Victorian Paragon, Hamish Hamilton, 1976
  3. Richard Ormond, Sir Edwin Landseer, Philadelphia Museum of Art and The Tate Gallery, 1981
  4. Trevor Robert Pringle, "Prophet of the Highlands: Sir Edwin Landseer and the Scottish Highland image", a doctoral thesis in Loughborough University, 1988
  5. Ronald Parkinson, Catalogue of British oil paintings, 1820-1860: Victoria & Albert Museum. HMSO, 1990, pp. 138-153
  6. Luke Herrmann, "Sir Edwin Landseer, RA (1803-73)", Nineteenth century British painting, Giles de la Mare, 2000, pp. 183-194
  7. Richard Ormond, The monarch of the glen: Landseer in the Highlands, National Galleries of Scotland, 2005
  8. Diana Donald, "Landseer's Dogs", Picturing animals in Britain, 1750-1850, Paul Mellon Centre, 2007, pp. 127-158
  9. Diana Donald and Jane Munro(edit.), Endless forms: Charles Darwin, natural science and the visual arts, Fitzwilliam Museum, Yale Center for British Art, In association with Yale University Press, 2009
  10. Richard Ormond, Edwin Landseer: The Private Drawings, Unicorn Press, 2015
  11. Xavier Bray, etc. Faithful and Fearless: Portraits of Dogs. D Giles, 2021
  12. Stephen Duffy, "'The monarch of the glen': painting for the new Houses of Parliament", The Burlington Magazine, vol. 167, no. 1465, April 2025, pp. 342-353

脚注

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注釈

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  1. イギリス美術史の研究者たちは「ランシア」表記を採用している場合が多い。
  2. 見世物的な性格の強い動物園のこと。
  3. 実際、先行研究では「神童(prodigy)」という表現が用いられている。Ormond (1981) の章タイトル "The Youthful Prodigy, 1812-1827"などを参照。
  4. ランシアがベッドフォード公爵の邸宅であるウォバーン・アビーを最初に訪れたのは1823年2月とされている。
  5. ヴィクトリア女王とランシアによるハイランド愛好については、トゥレヴァー・R・プリングル (2001) を参照されたい。
  6. 両者が恋愛関係にあったという噂は事実とは限らない。
  7. J.D. (1875) "Studies and Sketches by Sir Edwin Landseer, R.A."で一部が紹介されている。
  8. 『丘と湖における王家の狩猟、またはミュイック湖に上陸するヴィクトリア女王』(1850年)は長い間完成には至らず、画家が1870年代まで手を加え続けた末に、1873年頃にロイヤル・コレクションに加えられた。1874年にはW・H・シモンズによって複製版画(RCIN 630538)が制作された。しかし、ジョージ5世の命令によって原画作品は破毀された。現在ロイヤル・コレクションに所蔵されている油彩画(RCIN 403221)は、本作品の習作である。Ormond (1981), pp. 160-163、Pringle (1988) を参照。
  9. 1845年には総収入3,968ポンドのうち2,028ポンドが、1846年には総収入4,394ポンドのうち2,500ポンドが、1847年には総収入6,432ポンドのうち3,162ポンドが著作権使用料だった。Ormond (1981), p. 12を参照。
  10. 『谷間の君主』(1851年)については、Stephen Duffy (2025) を参照されたい。

出典

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  1. Joshua Reynolds, The Cottagers 1788”. Detroit Institute of Arts. 2026年4月6日閲覧。
  2. Frederick G. Stephens (1895). Sir Edwin Landseer. pp. 1-15
  3. James A. Manson (1902). Sir Edwin Landseer, RA. pp. 11-20
  4. Richard Ormond (1981). Sir Edwin Landseer. pp. 1-2
  5. Stephens (1895), p. 17
  6. Manson (1902), p. 24
  7. R. D. オールティック『ロンドンの見世物』 第2巻、小池滋監訳、国書刊行会、1990年、370頁。
  8. Manson (1902), pp. 30-31
  9. Stephens (1895), p. 32
  10. Manson (1902), p. 31
  11. Ormond (1981), p. 4
  12. 1 2 3 4 Sir Edwin Landseer RA (1802 - 1873)”. Royal Academy of Arts. 2026年3月9日閲覧。
  13. Stephens (1895), p. 42
  14. Manson (1902), p. 34
  15. Charles Robert Leslie (1860), Autobiographical Recollections, vol. 1, p. 37
  16. 1 2 Stephens (1895), p. 55
  17. 1 2 Manson (1902), p. 54
  18. C. R. Leslie to Ann Leslie, August 24, 1824で述べられているとのこと。Ormond (1981), p. 5
  19. Ormond (1981), p. 6およびpp. 73-75
  20. Ormond (1981), pp.95-97
  21. Ormond (1981), pp. 115-117
  22. Stephens (1895), p. 60
  23. Manson (1902), pp. 56-57
  24. Ormond (1981), p. 6
  25. Stephens (1895), p. 58
  26. Manson (1902), p. 52
  27. Scott Wilcox. 1826 Rival Models for History Painting”. The Royal Acedemy Summer Exhibition: A Chronicle, 1769-2018. The Royal Academy of Arts. 2026年3月17日閲覧。
  28. Ormond (1981), p. 144
  29. Queen Victoria's Journal, November 24, 1837. 日本語訳は高橋達史、高橋裕子 (1993), p. 212による。
  30. Manson (1902), p. 104
  31. Robin Hamlyn (1993). Robert Vernon's gift : British art for the nation 1847. Tate Gallery
  32. Ronald Parkinson (1990). Catalogue of British oil paintings, 1820-1860: Victoria & Albert Museum. pp. 138-153
  33. The National Gallery, London. Jacob Bell (1810 - 1859) | National Gallery, London”. www.nationalgallery.org.uk. 2026年3月26日閲覧。
  34. Jacob Bell and the Artists”. Royal Pharmaceutical Society. 2026年3月26日閲覧。
  35. Dr. Ted Gott. Away with the fairies. Edwin Landseer’s A Midsummer Night’s Dream. Titania and Bottom, 1848–1851”. The National Gallery of Victoria. 2026年3月17日閲覧。
  36. John Ruskin (1843). Modern Painters. vol. 1. 日本語訳はジョン・ラスキン著、内藤史朗訳『芸術の真実と教育【近代画家論・原理編Ⅰ】』法蔵館、2003年、pp13-14による。
  37. Ormond (1981), p. 10
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外部リンク

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