ウスティルーフ

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座標: 北緯50度51分36秒 東経24度9分25秒 / 北緯50.86000度 東経24.15694度 / 50.86000; 24.15694

ウスティルーフ
UKR Ustilug COA.png
市章
ウスティルーフの位置(ウクライナ内)
ウスティルーフ
 ウクライナ
ヴォルィーニ州
地区 ヴォロディームィル地区
団体コード 720510400
人口 2,205人 (2011年8月1日)
面積 4.03 km²
人口密度 547.1 人 / km²
郵便番号 44731
電話コード +380-3342
インタネット 公式サイト

ウスティルーフウクライナ語: Устилуг)はウクライナヴォルィーニ州ヴォロディームィル地区にある都市西ブーフ川ルハ川の河岸に位置する。都市の高さは海抜188 mである。面積は4.03 km²。人口は2,205人 (2011年8月1日)、人口密度は547.1 人 / km²。

ウスティルーフは1150年に創建された。1653年に自治権を獲得した。1940年に市制施行された。

市内ではヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー駅がある。首都キエフまでの直線距離は453 kmであるが、鉄道で506 km、車道で506kmとなっている。州庁所在地までの直線距離は84 km、鉄道で150 km、車道で90kmとなっている。ウスティルーフの日は、7月12日となっている。

歴史[編集]

ウスティルーフはもとブク川の水運を主要な産業とするユダヤ人の村であり、19世紀なかばには人口の9割がユダヤ人だった[1]第一次世界大戦後にはポーランド領となり、村から都市に昇格した。1939年のポーランド侵攻でウスティルーフはソ連に支配され、ナチス・ドイツポーランド総督府と国境を接するようになった。ウスティルーフのユダヤ人の13はソ連政府によって別の町に移動させられた。1941年には爆撃によってウスティルーフの8割以上の家屋が破壊され、約500人が死亡した後、ドイツに征服された。ユダヤ人は強制収容所に入れられ、多くは殺害された[1]

著名な人物[編集]

ウスティルーフはイーゴリ・ストラヴィンスキーが1914年まで夏の間を過ごしたことで知られる。ストラヴィンスキーの母の姉であるマリヤ・ノセンコ夫妻は1880年代はじめにウスティルーフに数千ヘクタールの土地を購入した[2]。ストラヴィンスキーは8歳のときに家族とともにはじめてウスティルーフを訪れ、いとこのイェカテリーナ(後に妻となる)とはじめて会った[3]。大学を卒業した1905年にここでふたりは婚約を発表し、その後は第一次世界大戦の始まる1914年まで、夏の間をほとんど毎年この地で過ごした。ストラヴィンスキー本人の設計によって家が建てられ、1908年から住んだ[4]。『春の祭典』を含む多数の曲がここで書かれた。

2つの世界大戦で被害を受けたにもかかわらず、ストラヴィンスキーの家は現存するが、本来の設計からはかけ離れたものになってしまっている[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b Pinkas Hakehillot Polin (1990). “Uscilug”. In Shmuel Spector. Encyclopedia of Jewish Communities in Poland. 5. Jerusalem: Yad Vashem. pp. 32-34. https://www.jewishgen.org/yizkor/pinkas_poland/pol5_00032.html. 
  2. ^ Walsh (1999) p.41
  3. ^ Walsh (1999) p.43
  4. ^ a b Walsh (1999) p.116

参考文献[編集]

外部リンク[編集]