ウジェーヌ・マネ

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ウジェーヌ・マネ
Eugène Manet
生誕 (1833-11-21) 1833年11月21日
フランスの旗 フランス王国 パリ
死没 (1892-04-13) 1892年4月13日(58歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ16区
国籍 フランスの旗 フランス
職業 画家
配偶者 ベルト・モリゾ
子供 ジュリー・マネ
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ウジェーヌ・マネEugène Manet, 1833年11月21日 - 1892年4月13日)は、フランスの画家。画家エドゥアール・マネの弟であり、画家ベルト・モリゾの夫。

概要[編集]

パリで、裕福なブルジョワジーの家庭の次男として生まれた。父オーギュスト・マネは、司法省の高級官僚(司法官)で共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルニエ家の娘であった。兄エドゥアールは1833年生、弟ギュスターヴは1835年生である[1]

1853年には、兄エドゥアールとともにイタリアのヴェネツィアフィレンツェを旅し、ティツィアーノの作品などを見て回った[2]

ウジェーヌは、兄エドゥアールの作品『テュイルリー公園の音楽会』(1862年)のモデルとして描かれている[3]。そのほか、『海辺にて』などの作品にもモデルとして登場している[4]

1868年、画家のベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾが、アンリ・ファンタン=ラトゥールの紹介でエドゥアール・マネと知り合い、以後、モリゾ家とマネ家は家族ぐるみで付き合うようになった。ベルト・モリゾとエドゥアール・マネとの間に恋愛感情があったとする説もあるが、証拠はない[5]

1874年、ベルト・モリゾがエドゥアール・マネの反対を押し切って印象派グループ展に参加した年の12月22日、ウジェーヌ・マネはベルト・モリゾとパッシー(パリ16区)のノートルダム=ド=グラス教会(l'église de Notre-Dame-de-Grâce de Passy)で結婚式を挙げた。この年、王党派だったモリゾの父が亡くなったことで、共和主義者だったウジェーヌとの結婚が許された。エドゥアールは、2人の結婚に際して『扇を持つベルト・モリゾ』を贈り、エドガー・ドガは、『ウジェーヌ・マネの肖像』を贈った[6]

ウジェーヌは、兄エドゥアールの制作活動を見てきたこともあり、当時としては珍しい妻ベルトの女性画家としての活動を理解し、支えた。妻の作品のモデルとなったり、印象派グループ展の企画に関わり、妻の作品の展示を取り仕切ったり、戸外制作の際に妻の荷物を運んだりした。2人の間には、娘ジュリーが生まれた[7]1883年に兄エドゥアールが亡くなり、ウジェーヌは妻とともに翌1884年の回顧展のために奔走した。弟ギュスターヴも1884年に亡くなっている。1883年末には、パッシーのヴィルジュスト通り(rue de Villejust, 現ポール=ヴァレリー通り(fr))に、ウジェーヌ自らの設計で家を建てた。毎週木曜日には晩餐会を開き、ドガ、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールステファヌ・マラルメ、ファンタン=ラトゥール、メアリー・カサットなどが集まった[8]

パッシー墓地にあるウジェーヌ・マネとベルト・モリゾの墓。

ウジェーヌは、1886年の印象派グループ展にも関わったが、1887年から肺梅毒で体調を崩すようになり、性格はますます気難しくなっていった。病状は悪化していき、1892年に亡くなった。娘ジュリーは13歳のことだった[9]。妻ベルトも感染してたと思われ、ウジェーヌ死後3年後に亡くなった。

ウジェーヌは死の直前、病気を押して妻の個展を準備しており、死の翌月の5月25日から6月18日まで、モンマルトル大通りのブッソ・ヴァラドン商会でその個展が開かれた[10]

関連作品[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • フランソワーズ・カシャン『マネ――近代絵画の誕生』藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社「知の再発見」双書〉、2008年(原著1994年)。ISBN 978-4-422-21197-8 
  • 木村泰司『印象派という革命』筑摩書房ちくま文庫〉、2018年。ISBN 978-4-480-43547-7