アブドゥラウフ・フィトラト

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ウズベキスタンの切手に描かれるフィトラト(1996年)

アブドゥラウフ・フィトラトラテン文字: Abdurauf Fitrat、ロシア語: Абдурауф Фитрат1886年 - 1938年)は、ウズベキスタンブハラ出身の政治家作家思想家である[1]

生涯[編集]

当時ロシア帝国による保護国であったブハラ・アミール国ブハラで生まれた[2]。1909年、彼はオスマン帝国イスタンブールへと留学し、文学、歴史について学んだ[3]。彼は1914年に帰国し、政治運動に参加するようになった。彼は青年トルコ人を基にして設立された革命集団、青年ブハラ人英語版に参加し、ロシア革命の期間中はボリシェヴィキとともに革命活動を行なっていた。1920年、フィトラトはブハラ人民ソビエト共和国の経済大臣・教育大臣に就任したが、1923年に失脚した。その後彼は中央アジアテュルク民族文化学者として働いていたが、1937年に大粛清の犠牲者となり逮捕、1938年に処刑された[4]

フィトラトのサイン

脚注[編集]

  1. ^ フィトラト,A.”. 三島市立図書館. 2013年5月24日閲覧。
  2. ^ Debate between a Teacher from Bukhara and a European
  3. ^ Gramerimiz.Com
  4. ^ FEṬRAT, ʿABD-AL-RAʾŪF BOḴĀRĪ”. Encyclopædia Iranica. 2013年5月24日閲覧。